梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

荻原重秀と張之洞

 今年に入って、日本の貨幣・金融政策史をテーマにした優れた啓蒙書がいくつか出版されている。

 

勘定奉行 荻原重秀の生涯 ―新井白石が嫉妬した天才経済官僚 (集英社新書)

勘定奉行 荻原重秀の生涯 ―新井白石が嫉妬した天才経済官僚 (集英社新書)

 
歴史が教えるマネーの理論

歴史が教えるマネーの理論

 これらの本を読むにつけ、江戸時代において、貨幣の改鋳がそのまま全国的な金融政策として波及していったという事実に改めて驚きを感じる。貨幣の品質を落とすとインフレが起こる。一見至極当たり前の現象に思われるかも知れないが、このような「金融政策」が実現するには「法定通貨」に対する「信頼」の成立や、全国的な「貨幣流通圏」の成立など、国内経済に関するいくつかの条件をクリアしていなければならない。少なくとも中国では20世紀になるまで、そのような条件は成立していなかった。

 さて荻原重秀の行った元禄の貨幣改鋳に代表される、名目貨幣発行による金融緩和政策とシニョリッジ(貨幣改鋳益)による財政拡張政策の組み合わせに匹敵するような経済政策を中国ではじめに行ったのが、清末の政治家にして有能な経済官僚・張之洞その人である。
 中国では伝統的に遠隔地間の高額決済に用いられる銀と日常取引に用いられる銅貨が貨幣として用いられてきたが、銅貨は素材価値とほぼ等しいかそれを下回る額面でしか鋳造されず、また銀は一貫して鋳造されないまま秤量貨幣として用いられたため、名目貨幣発行によるシニョリッジの追求はついぞ行われなかった。これは偽造を防ぐような鋳造技術が未熟であったことに加え、素材価値を上回るような高額の銀貨が実際の取引で用いられる契機が存在しなかったこと、中国の歴代王朝では政権が安定していた上にその財政が硬直的だったため、改鋳を行ってまで財政支出を拡大する必要が存在しなかったことなどが主要な要因と考えられる。

 しかし、アヘン戦争での敗北に始まる列強による侵略の脅威と、それに対抗するための「富国強兵」「殖産興業」の必要性が政府に認識されると事態は一変する。国家近代化のための財政規模の拡大が必要になったのだ。このニーズに貨幣改鋳という方法をもって応えようとしたのが広東省および湖北省の総督であった張之洞であった。張は、初め海外から流入してきたメキシコドルに対抗するための独自の銀貨の鋳造を行ったが、額面が大きすぎて思ったように流通しなかったため、今度は高額の銅貨(銅元)を鋳造し、流通に成功させる。そしてその発行益により鉄道敷設や鉄鋼所の建設といった近代化プロジェクトを次々と実施していく。この点では、張之洞の試みと江戸時代の荻原重秀の政策は全く同じものであるといってよい。

 ただし、両者の政策の帰結は大きく異なるものであった。張が幣制改革を行った湖北省周辺では確かにマネーサプライの増大による経済の活性化に成功するが、その影響は決して中国全土には広がっていかなかった。湖北省における銅貨の大量発行により、銅-銀レートは銀高に大きく振れる。この時代においても、遠隔地間の交易はやはり銀建てで行われるので、このことはすなわち湖北から他地域へ移出される財の価格が大きく低下することを意味した。つまり、湖北省を中心とする通貨圏の名目為替レートが切り下がり、他地域への金融政策の波及効果を遮断してしまったのだ(続く・・かも)。