梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

フィッシャー・ブラック V.S スティグリッツ=グリーンワルド

 先日銅鑼衣紋さんにコメントをもらってから、スティグリッツ=グリーンワルドに代表されるような信用経済モデルと景気との関連をいろいろ考えていたのだが、そのうちに考えがどんどんあらぬ方向にいってしまったのだった。書かないとなんだか気持ちが悪いのでとりあえず書いておくことにするけど、基本的に現実の日本経済とはほとんど関係ないどころかかなり僕の「妄想」が入っているかもしれないので、その辺はお含みおきください。

  さて、S&Gモデルが経済の変動における「信用」の役割を重視する立場だとしたら、それに対立する立場とはなんだろうか。一見すると「クレジット・ヴュー」に対して「マネー・ヴュー」という言い方があるくらいだから、マネタリスト的な立場がそれにあたるようにも思える。しかし、僕の理解ではこの二つの立場は相容れないものというより実際は相互補完的なものだろう。それこそバーナンキみたいに双方の立場にまたがるような形で研究成果を残している人もいるわけだし。
 また貨幣や金融の動きが景気の動向に中立的だとする理論としては周知の通り実物景気循環論(RBC)があるが、これも資本市場の不完全性という一見ニュー・ケインジアン的な要素を組み込んだモデル(ザ・モデル!)の構築が可能らしいから、話はややこしい。
 ここからが僕の勝手な思いつきなのだが、最近読んだ以下の本で説明されている景気循環モデルなんかが、実はS&Gの信用経済モデルなんかの対極に位置しているといえるのではないだろうか。

金融工学者フィッシャー・ブラック

金融工学者フィッシャー・ブラック

 すでにあちこちで好意的に紹介されているこの本だが、もともとファイナンス理論には弱い僕でも面白く読むことができた。なんといっても興味を引かれたのはこれまで論じられることの少なかったブラックのユニークな景気循環論や市場均衡理論に関する記述で、これについては、韓リフ先生の簡潔なまとめがある。

http://reflation.bblog.jp/entry/290692/

ブラックの景気循環論は、資本収益率の変動に景気循環の原因を求めるもの、資本収益率の変動は将来キャッシュフローが不確実なために生ずる。経済主体の利用できる将来の情報には「はずれ」と「あたり」があり、この情報のミスマッチが変動の究極原因。ブラックはルーカスモデルは金融政策が、RBCでは技術ショックがそれぞれ外的な要因として変動を引き起こすことを問題視していたようである。ブラック自身は消費主体の情報の不確実性を中心にした内生的景気循環論を構想していたようである。


 原典の論文に当たったわけではないのだが本書の記述から理解する限り、ブラックの景気循環モデルの特徴は、まず貨幣が外生ではなく信用供与によって生じる内部貨幣としてとらえられていること、そして全ての資産(これには「人的資本」も含まれる)は価格のほかにリスクをもつものとされ、それらはCAPMとよばれる資産の収益率とリスクに関する方程式によって表現可能とされること、にある。
 そして賃金などのフローの収入を「資産」がもたらす収益と考えれば、市場の一般均衡は基本的に各資産ごとのCAPMの体系によって表現できる。また経済主体間の信用(つまり貨幣の内生的な発行)は、資本市場の需給を調節する手段としてのみ必要とされる。ただしそこでいう「信用」とは、相手のリスクを見極めて高リターンを狙う、といった能動的なものではなく、リスクが存在せず、資金を借りたいものは所定の金利でいくらでも借りられるという、資金需給においてセイ法則が完璧に成り立つような世界が想定されている。

 繰り返すが、このモデルでは貨幣は資本市場の需給ギャップの調整のために内生的かつ受動的に供給されるに過ぎないので、中央銀行などが外的に貨幣を発行したり、あるいは金利を引き上げたりする金融政策には全く意味がないということになる。
 この結論だけでも標準的なマクロ経済学の理論とは対決しまくりだが、S&Gのような信用経済論との比較で重要なのはその背景にあるいわばその「市場経済観」である。

 ブラックのモデルでも、経済の不確実性は非常に重視されており、投資にはリスクがつきものだとされている。が、一方では他の経済主体からの借り入れにはリスクが全く存在しないという仮定がなされている。なぜこのような非現実的な仮定を置くのか。それは恐らくブラックが、全ての投資は資本市場を通じてCAPMであらわされるようなリスクとリターンに関する適正な評価基準が決まるし、それを通じて均衡が必ず実現できると考えていたからだ。
 逆に、投資の評価を市場ではなく、銀行と企業間で行われているような相対取引で行ったのでは市場を均衡させるようなリスク評価はなされず、必ず不均衡が生じてしまう。彼のモデルの信用取引にリスクが想定されていないのは、「およそリスクのある投資・生産は必ず資本市場を通じて行われなければならない」という思想がそこにあるためだ思われる。

 それに対し、スティグリッツらが展開してきた情報の経済学による「信用」とは、いうまでもなく、市場ではなく相対取引を通じ、十分に審査費用をかけた上で行われるもので、資産選択の中でも最もリスクの高いものであり、また市場でそのリスクを分散することも難しい(たとえ完全な債権市場ができたとしても最初に投資された審査費用はサンクコストとなるのでその市場はうまく機能しない)。そこでは信用割り当てのような不均衡がむしろ状態であり、金融政策は貸し手の資産状態や景気の先行きに対する期待感への影響を通じて実体経済にも大きな影響をあたえるとされる。しかしブラックにすれば資金調達を相対取引によって行うという前提自体が間違っているので、そんな結論はナンセンスだ、そんなこと考えている暇があったら資本取引がヨリ円滑に行えるようシステムの整備に力を入れなさい、ということになるだろう。

 残念なのは本書でも触れられているように学界のなかでも一般的な評価としてはブラックはあくまでもファイナンスの理論家であり、その景気循環論は完全に異端とされてきたため、有力なテキストにほとんどその説明や批判が載っていないことだ。しかし、ブラックのモデルは現実味こそ乏しいものの、いわばその市場経済の極北の姿を示すことで、逆に主流派経済学がこだわってきたポイントを浮かび上がらせる効果を持っているように思える。
 貨幣と信用と資本(市場)は、どれも実物の世界に対するおカネの世界に属しており、その意味で一見同じようなものに見えるが、このうちのどれに重点をおくかによってその経済観は全く違ったものになる。ブラックの経済学はまた、そんなこともちょっと考えさせてくれる。