梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

ボイコット・経済制裁・ハーシュマン(下)

 前回のエントリid:kaikaji:20060805の続きです。

 さて、ボイコットと言うと一般的には市民団体やNGOが行うというイメージがあるが、時にはそれが国家レベルで行われる場合もある。一時の反日デモのときに叫ばれた「日貨排斥」(ほとんど現実的な効果はなかったが)はその典型的な例であろう。
 あるいはそのようなボイコットが国策として行われる場合もあるが、これは通常「経済制裁」という名で呼ばれている。

 さて、これらの国家レベルで生じるボイコット運動については、特に最近その実施の是非が議論に上ることが多いようだ。例えば、N国が行ったミサイル発射実験実験に対して、そのミサイルの射程範囲内にある隣国のJ国(いずれも現存する国家とは全く関係がないのでくれぐれも誤解なきように)が抗議を行い、実験の中止を求めて経済制裁を発動する、という例を考えてみよう。この行為は(上)で述べたボイコットが有効に機能するための三つの条件からはどのように考えられるだろうか。
 
 まず、このような経済制裁が「発言」として機能するためには、まずそれが広く相手国の国民生活に打撃を与え、生活上の困難を感じた民衆が何らかの政治的アクションを政府に対して起こし、その結果政策の転換が生じる、と言う経路が想定されていることになる。これはおそらく途上国で生産されたN社のスニーカーをボイコットする場合よりもはるかに間接的で、複雑なロジックが想定されているといっていいだろう。単純に言って、相手国の国民にとってそのような政治的アクションをとる道が閉ざされていればこの「発言」は機能しない。また、たとえそのような政策転換の可能性があったとしても、その過程で直接関係のない相手国民衆の生活に影響が及ぶ、すなわち「誤爆」が生じることはあらかじめ前提とされている。

 次に、制裁を行う対象国の内部の人間による「離脱」「発言」との連携と言う点ではどうか。この点でまず参照すべきなのはやはりアメリカの例だろう。周知のごとく、アメリカはこれまで他国に対する経済制裁を最も頻繁に行ってきた国だが、それらは多くの場合対象国から「離脱」してきた人々の積極的な受け入れ、あるいは反政府勢力への支援とセットになっていた。
 例えば先日のフェデロ・カストロの入院に伴う一時的な権力移譲に伴い、アメリカのメディアは連日キューバ情勢を取り上げていたが、その際テレビカメラはマイアミのキューバ人コミュニティでカストロの退陣を望み「キューバは自由にならなければならない!」と叫ぶ亡命キューバ人たちの姿を頻繁に映し出していた。いうまでもないが祖国に対して忠誠心を抱きつつ「離脱」を行ってきた亡命キューバ人の口から語られる「発言」=キューバの体制批判は、それが単なる反共主義者アメリカ人の口から語られるよりも何倍もの重みを持つ。その意味で彼(女)らはすでにアメリカのキューバに対する経済制裁にとっての重要なリソースとなっている。しかし、言うまでもなく、もともと移民・難民の受け入れに消極的な国が経済制裁を行っても、このような制裁対象国のインサイダーとの連携を期待することはできないだろう。

 最後に、代替的な需要の存在。これは単純な話なのでわざわざ説明するまでもないだろう。例えばJ国が単独でN国に対して経済制裁を行ったとしても、両国間の経済関係が限定的なものであり、またN国が他の近隣諸国との関係を強めることが可能であれば、制裁の効果は限定的なものに終わるだろう。

 さて、ボイコットや経済制裁はいずれも「離脱」を手段としているものの、その本来の目的は「発言」、すなわち企業や政府に対して何らかの行動の変化を求めることにこそあるはずだ。しかし、現実に行われるボイコットなり経済制裁は往々にして「離脱」と「発言」との結びつきという点においてこれまでみてきたような問題を抱えており、「発言」が有効に機能しない場合が多いと考えられる。その場合、ボイコットや経済制裁は単なる「離脱」としての意味しか持たなくなるだろう。それでも「途上国の労働者に対する搾取に加担したくない」「あのような人権無視の独裁国家とは一切のかかわりを持ちたくない」という人々の心情が、そういった「離脱」の実施に根拠を与えるだろう。

 もちろん、条件がそろえば、よく引き合いに出される南アフリカの人種隔離政策にたいする場合のように、経済制裁が「発言」としても一定の効果を上げることはあるかもしれない。しかし、一般的にいって経済制裁はそのリスクの大きさの割には成功の確率が低く、そのわずかな可能性にかけて政策を実施するのは「暗闇の中での跳躍」のようなものだ、と言わざるを得ないのではないか。
 
 最後に雑感だが、どうも国によって得意な「離脱・発言・忠誠」の組み合わせのパターンというものが存在するようだ。例えばハーシュマンも述べているように、アメリカはその意思決定の多くの側面において「離脱」の存在を他のどの国よりも重視してきた。だから僕などには、スエットショップへのボイコット運動もキューバその他への経済制裁も、どちらもアメリカ的な「離脱」をよしとする価値観に支えられたものであるという点で同根なのではないか、という気がどうしてもしてしまう。
 それに対して日本は、その意思決定の手段としておそらく「離脱」よりもはるかに「発言」「忠誠」にウェートをおく社会であり続けてきた。ハーシュマンの表現を借りれば日本は「離脱のない」国家であることによってこれまで利益を得てきたのだ。個人的には、その「伝統」をもう少し大事にしてみてもいいように思うのだが。