先日児童労働問題に取り組んでいるNGOの方からコメントをいただいた(id:kaikaji:20060528#c1153979501以下)。
繰り返して書いてきたように、僕自身はいわゆるスエットショップと呼ばれる途上国における低賃金労働の問題を考える際には、グローバル経済と途上国国内に働く市場経済のロジックをまず考慮したうえで、それと矛盾しない形で適切な政策あるいは援助とはなにかを考えるべきだと思っている。別に市場経済のロジックに「従うべきだ」と主張しているわけではなくて、「それは無視できないよ」ということをわかって欲しいわけだ。
ただ、こういった経済学的な議論のいわば表面的な「冷たさ」に感情的な反発を抱いてしまう人々がいることも経験的によくわかっている。そういった反発が、経済学や経済学者全般に関する不信感につながりかねないとしたらとても残念なことだ。なんとか生産的な「対話」を行う方法はないものか。
そこで注目したいのが、アルバート・ハーシュマンの「離脱・発言・忠誠」という概念である。

離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)
- 作者: A.O.ハーシュマン,Albert O. Hirschman,矢野修一
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2005/05/01
- メディア: 単行本
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まず、ハーシュマンの議論をごく簡単にまとめておこう。「離脱・発言・忠誠」とは端的に言えば経済主体が相互に影響を考える際に特に重要な概念を指したものである。
まず「離脱」とはいわゆる経済主体による「選択の自由」の行使を言い換えたものに他ならない。たとえば消費者であればそれまで使っていた商品の購入をやめること、そして労働者にとっては勤めていた会社をやめることがそれにあたる。
しかし、現実には、商品の品質や職場に不満があるとき、消費者や労働者にとっての選択肢は製品の購入や会社をやめることだけではない。商品や職場の現状の改善を訴える、すなわち「発言」を行うことによって、企業の経営方針に影響を与えることだってありうる。これは確かに商品の需要や価格に直接の影響を及ぼさないが、立派な経済行為に違いない。
にもかかわらず、ハーシュマンによれば、伝統的に経済学者は「離脱」のみに注目する傾向があり、「発言」はもっぱら政治学者その他の領分とされてきた。しかし、実際にはこの二つの行動は密接に関係している。たとえば、「発言」が効果的に働くかどうかは、発言を行うもののその組織や企業に対する「忠誠」(離脱オプションが行使できるのにあえて行使しない)の度合いにも大きく左右されるはずだ。現実には組織への「忠誠」度が高い者による批判的な「発言」ほど大きなインパクトを持つだろうからだ。
また、消費者にとって「離脱」すなわち選択の機会が増えることは、通常経済学的には望ましいとされている。しかしハーシュマンは、あまりに「離脱」が容易になりすぎると、わざわざよりコストのかかる「発言」を行うインセンティヴが失われてしまうため、かえって企業の経営改善の努力がなされなくなる場合もあることを指摘している。
このように、ハーシュマンはこの「離脱・発言・忠誠」のさまざまな組みあわせを考えることによって、経済学と政治学の双方の領域にまたがるような一見複雑な現象に合理的な説明を与えることを提唱している。買うのをやめるという「離脱」オプションの行使と同時に「経営方針を転換しろ」などといった「発言」をおこない、企業の行動次第ではまた購入を始めるという「ボイコット」は、「離脱」と「発言」が組みあ合わさった典型的な例だと言えよう。
確かに、ボイコットが企業の行動に大きな影響を与える場合もある。例えばP社*1が製造した湯沸し器に欠陥があることがわかった場合、はっきりした改善の兆しが見られるまでP社の製品の購入をやめよう、と他の消費者にも呼びかけたり、あるいは苦情を企業に寄せたりする消費者が必ず出てくるだろう。そしてそのような消費者の「発言」を伴った「離脱」は企業にとって非常に大きな打撃をあたえ、改善に向けた努力を促すことだろう。
一方で、これまでここで再三取り上げてきたように、反スエットショップ運動に代表される外国からの輸入品に対するさまざまなボイコット運動は、基本的にそういった有効性の点で疑わしいと僕は考えている。それでは二つのボイコットはどこが違うのだろうか。
・・というわけでここからは一応ハーシュマンの議論を離れて、自分なりにない知恵を絞って考えていくことにしよう。
ここでは、ボイコット運動が有効に機能するかどうかのポイントとして、次の三つの点を挙げておきたい。
一つは、「発言」の直接性、すなわちボイコット運動のメッセージが本来向けられるべき相手に間違いなく向けられているかどうか、ということである。
例えばP社の製造した湯沸かし器に欠陥があったからそれをボイコットする、という比較的単純な行為については、そのメッセージが「誤配」される可能性はほとんどない。しかし、例えばN社の海外工場で作られたスニーカーが度を越した低賃金労働で作られていることがわかったので同社の製品をボイコットする、と言う場合はどうか。確かにそれが事実であったとしても、それは特定の国のあるいは地域の工場に限定された話かもしれない。にもかかわらずN社の製品全体がボイコットの対象になるとしたら、本来攻撃の対象にならなくてもいいはずの工場の製品までがボイコットの打撃を受けるという点で「誤爆」が生じていることになる。
またN社の製品が自社工場ではなく、現地企業に対する委託生産によって作られているケースもあるかもしれない。その場合、N社は批判をかわすために、現地企業に対して労働者の待遇を改善させる代わりに、単にそういった問題のある現地企業を切り捨てる(「離脱」)かもしれない。そこで切り捨てられた現地企業がより一層劣悪な労働条件のもとで操業を続けない、という保証はない。
このように「発言」が向けられるべき対象と実際のボイコットが行われる対象にギャップがあったり、あるいはメッセージが間接的なものであるほど、実際に効果をあげる可能性は低くなるし、逆に「誤爆」の可能性は高くなるだろう。
二つ目に重要なのは、攻撃対象のインサイダーによる「離脱」「発言」との連携の可能性である。P社の例で言えば、同社の湯沸かし器に対するボイコットは、かならず内部における危機意識を誘発し、なんとかして同社の経営体質を変えようという社員達の「発言」を活発化させるだろう。あるいは見切りをつけて「離脱」する社員も出てくるかもしれない。このような内部における危機への対応―発言と離脱ーを誘発する場合、ボイコット運動は事態を改善させる大きな力を持つだろう。
反スエットショップ運動にしても、もし現地の労働者が過酷な労働条件に実際の抗議の声を上げ、NGOなどがそれを支援する形で何らかの具体的なアクションを起こす、というケースであれば、より現実的な効果をもたらす可能性が高いだろう。しかし、必ずしもそういった現地との連携を伴わないボイコット運動は、恐らく自己満足で終わるケースが多いだろう。
三つ目は、ボイコットによって減少した需要に対する代替的な需要の存在である。たとえば上述した現地企業への委託生産の場合が典型的だが、国際社会からの非難によって海外輸出が難しくなったとしても国内市場での販売へのスイッチが可能な場合であれば、たとえ海外に輸出を行うような工場の労働条件は向上したとしても、劣悪な労働条件での生産自体は存続していくかもしれない。
というわけで、ボイコット運動がここに挙げたような条件を満たさない時、そこにこめられた「発言」の影響力は低下し、ボイコットはむしろ単なる「離脱」と区別がつかなくなると思われる。クルーグマンが皮肉をこめて批判したように、その「離脱」によって運動参加者の「搾取に加担したくない」という正義感は満たされるかもしれない。しかしそのような単なる「離脱」は、おそらく途上国の現状の改善には結びつかないだろう(続く)。
*1:以下、イニシャルで表記した企業名は実在の企業とはなんら無関係ですのでよろしく