えーと、G20とかTPPとかAPECとか、英語の頭文字が多くてよくわかりませんが、何か世界の大事なことが次々と決まりつつあるんですよね?
・・というわけで、尖閣の件はともかくとして、現在の国際情勢を考えたときに、先進諸国が押しなべて中国と対峙することの難しさに直面している、という認識はそれほど的外れでもないだろう。ここでやや視野を広く持つならば、いわゆる「西側」の先進国が中国と対峙することの難しさは、かなりの部分がかの国が「遅れてきた、あるいは似て非なる開発主義国家」であることに帰することができるのではないかと思う。そのことを詳しく論じるためには「開発主義」あるいは「開発体制」とはいったい何であったのか、ということを改めて論じる必要があるわけだが、そのための知識を整理しておくための格好のガイドブックとして、以下の本をお勧めしておきたい。
アジア政治とは何か - 開発・民主化・民主主義再考 (中公叢書)
- 作者: 岩崎育夫
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2009/12/11
- メディア: 単行本
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本書が定義するように、独裁的、あるいは権威主義的な政権がその体制の維持を目的とし、そのために国家主導の経済発展を目指す、という組み合わせが「開発体制」であるなら、その一群に現在の中国の政治経済体制を加わえることはそれほどおかしなことではないはずだ。実際、反体制運動や少数民族の抑圧、役人の腐敗の横行、国民生活の監視行動など、現在の共産党の支配体制はスハルト時代のインドネシアのおけるゴルカル党の支配体制とそっくりな面も少なくない。しかし、岩崎も指摘するように、冷戦体制の下で、基本的にアメリカの強力なバックアップの下で、ある意味で横並び的に開発体制を選び取った他の東アジア諸国(先発国)と、その影響を強く受けながらも、自らは東アジア諸国が開発体制を「終わらせた」後に本格的な経済開発戦略を採用するようになった中国との差異は存外に大きいのも事実である。
たとえば、東アジアにおける開発体制の「先発国」は、たとえ事実上は抑圧的な独裁体制であっても形式的には「民主的な」選挙や三権分立の制度を採用することが多かったのに対し、中国はそのような西側の制度の採用を表面的にも拒絶している。また、「先発国」が微妙な駆け引きはあったとしても、基本的にアメリカや日本の政権と真っ向から対立する姿勢は見せなかったのに対し、中国は時としてそういった深刻な対立を辞さない強硬な姿勢を見せている。これらの「差異」は、冷戦崩壊後に、アメリカが民主化を唯一の価値観とした外交を展開するようになってから、もともと権威主義的だった「先発国」においてドミノ現象のように民主化が生じたという現象をもって、中国においても経済発展水準がそれらの国と同程度になれば同じように民主化が進展する、という楽観的な見方に疑問を投げかけるものだといえよう。
これらの「差異」は、中国という国家や社会の本質が他の東アジア諸国とはかけ離れているのでそうなっているというよりは、冷戦の終焉という国際情勢のゲームのルールの決定的な変化、そしてそこでの主要アクターたるアメリカなどとの彼我の相対的な国力の差、という外部要因に基因するところが大きいだろう。だが、そういった外部要因を除けば、著者も指摘するように、かつての「反共国家」といまだに社会主義の看板を下ろしていない中国とではイデオロギー的には正反対にありながら、驚くほどその統治の性質は似通っている、と言ってよいのではないだろうか。これは、「開発主義」あるいは「開発体制」がイデオロギー的には終焉した今こそ、それを脱イデオロギー的な観点から改めて捉えなおす必要がある、ということを示唆するものでもある。
またこのことは、冷戦期を中心とした過去において、日本(政府)が、東アジアの権威主義国家に対して、経済面で、あるいは政治面でどのように振舞ってきたか、ということが、同じく日本(政府)が中国(政府)に対してどのように振舞っているか、あるいは振舞わざるを得ないか、ということのあたかも陰画のような役割を果たしている、ということを示すものではないだろうか?少なくとも個人的には、現在の混迷した対中外交の方向性を考える重要な鍵の一つが、過去に「開発体制」を採用した国家との関係を問い直すことにあるような気がしてならない。
以上のような観点からも、「開発体制」と「民主化」を二大キーワードに、東アジア諸国の政治が抱える共通の問題点を整理した本書は、考えを深める上でとても有用であった。