梶ピエールのブログ

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S&G本をヒックス的に読む?

 先日予告したS&G『新しい金融論』だけども、本格的に読み進む前に、昨日もTBした田中秀臣先生のブログで最近静かに盛り上がっているホートレーやヒックスやなどについての議論が、S&G本を理解するうえでも鍵になっているような気がするので、この機会に少し整理してみよう。

 S&G本のマクロ経済理論としての特徴は、景気を左右する要因として銀行の信用供与を重視するところにある。しかし、銀行の与信行為に不況の原因を見る議論自体なら、言うまでもなくこれまでにも多数存在した。

 その代表的なものがいわゆる「デット・デフレーション」あるいは「バランスシート不況」の議論だ。その手ごろな解説は、例えば竹森俊平『経済論戦はよみがえる』ISBN:4492393862。簡単にまとめると、不況期は資産価格が下落し不良債権が増大するため、企業や銀行のバランスシートは悪化する。企業のバランスシート悪化は貸出のリスクを高めるので、また銀行のバランスシート悪化は自己資本率の制約が働いてくるので、、いずれも銀行が新規貸し出しを控えるようになり、投資が抑圧される、という議論だ。竹森さんも強調しているように、この立場自体はリフレ政策とは全く矛盾しないけれども、ここからバランスシート悪化が不況の原因なのだから不良債権処理を優先させましょうという方向に議論を持っていこうとする論者が多いのもまた事実だ。
 だが、ここで改めてS&G本の索引を見てみると、「不良債権」という言葉自体がほとんど出てこないのだ(一箇所のみ)。「貸し渋り(クレジット・クランチ)」や「デッド・オーバーハング」といった用語もまたしかり。では、S&G本は不況と銀行行動との関係において、何を重視しているのだろうか?彼らの議論はどこが「新しい」のだろうか?
 その疑問を解く鍵は、実は一見「古臭い」かに見えるヒックスによる信用経済の議論にあるかも知れない、というのが、上記の田中先生ブログでのやり取りを見ていて気がついたことである。以下、たいへん参考になるのでそこでのHicksianさんのコメントから引用させていただこう。

 ヒックスのバランスシート上の流動性を通じた金融政策の波及に関する議論は、俗にいう金融政策の効果の非対称性(不況期からの金融緩和は、なぜ引き締めほど効果的ではないのか、紐を押すことはできないって議論ですね)を説明しようという意図もこめられていたと思います。ヒックスはバランスシート上における資産を実物/金融、目的別に稼動/準備/投資資産と区別した上で、経済主体は(特に企業部門は)、経常的な活動を行うために保有される実物・金融稼動資産と流動性を確保するために保有される金融準備資産のバランスに配慮して資産構成を行うと考えております。

ヒックスは将来の状況は不確実であり、その中で何が起こっても伸縮的に、即座に対応できるようにするために流動性を確保すると考えていたようです。将来の見晴らしが良くなるまで事態の推移を慎重に見極めるための、決断を留保するための手段として流動性を捉えていたようです。ですから、行動(実物投資)に確信が持てるまで、過剰に流動性を確保するという意味では(違う意味で)「流動性の罠」と言える状況が顕在化することも考えられると思います。

 つまり、ヒックス自身(およびトービン)がケインズ理論IS-LMを定式化したときには、投資家による貨幣と証券の間でのポートフォリオというストック面のみから「流動性選好」を説明しようとしたので、結局そこに銀行や企業のフローの経済活動に関する話は全く出てこなくなってしまった(トービンの「二分法」)。しかし、いわゆる後期ヒックスは、その路線を修正して、企業および銀行は基本的にリスク回避的であり、特に将来への不安が高まった時には「不確実性に対応しやすい」=「流動性の高い」資産を持つ傾向がある、というように、より広い意味で「流動性選好」を考えるようになったらしい。

 ここで話をもどすと、繰り返しになるが上記のようなデット・デフレーションの議論は、銀行や企業のバランスシートが改善すれば(不良債権処理がうまくなされれば)、それだけで貸出が増え、景気が回復する、という結論に結びつきがちである。
 しかし、銀行の貸出が伸びないのが、銀行や企業が「将来の不確実性に備えて、流動性の高い資産を保有しようとしているから」だとしたらどうか。たとえ不良債権が処理さされ、バランスシートが改善されたとしても、銀行がそういったより広い意味での「流動性選好」を持っている限り、国債などより流動性の高い資産の保有に向かうはずで、貸し出しは増えないだろう。つまり、不良債権処理は確かにデフレからの脱却に役に立つかもしれないが、それ「だけ」では不況対策としては不十分なのだ。

 そして問題のS&G本も、どうも以上のような(ヒックス的な)ロジックにたって不況を説明しようとしているようなのだ。たとえば、第3章は以下の分析の基礎となる重要な章だが、そこでは銀行がリスク回避的かどうかということに非常にこだわってモデル構築を行っている(実際にはリスク中立的なばあいと二種類のモデルを用意している)。銀行や企業ががリスク回避的であるからこそ、将来への不確実性が増大した時には流動性の低い貸出よりもTBなどの安全資産を持とうとする傾向があり、それが不況の原因になる。つまりS&G本における「流動性」の捉え方や、そこから不況が生じてくるロジックは、上記Hicksianさんの解説によるヒックスのそれと非常に似通っているような気がするのだ。
 またこう考えると、、理論モデルでこれだけ銀行の役割を重視しながら、日本のデフレ脱却に関しては不良債権処理などは一顧だにせずあくまでもリフレ政策を主張する、というスティグリッツの立場は、実はきわめて首尾一貫したものではなかっただろうか、とあらためて思えるのである。

 ・・というわけで、後は具体的に本書を読んでいく中で検討したい(もうしばらくしたらレジュメもどき掲載できる予定です)。