梶ピエールのブログ

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シンガポールの華字新聞『聯合早報』に、中国経済に関する論評が掲載されました。
http://www.zaobao.com.sg/forum/views/opinion/story20160913-665720

 ただ、これは会員限定の有料記事でしかも中国語なので、以下に元の日本語の原稿を公開します。ブログでお知らせするのが遅れましたが、毎日新聞社の『週刊エコノミスト』誌の先週号にも「人民元 急速な国際化は政策の足かせに」という記事を寄稿しており、これにもほぼ同じ内容のことを書いています(雑誌記事の方がもう少し詳しく、図表も入れて論じていますが)。基本的に私の中国経済に対する見立ては一年前とほぼ変わっておらず、日本の「失われた20年」における経済政策論争における見取り図を頭に入れた上で現在の中国経済を見れば、かなりすっきり整理されるのではないかと思っています。

危機的な状況を脱した中国経済

梶谷懐(神戸大学教授)
 
 7月16日、2016年上半期の中国GDPに関する統計が発表された。注目の実質成長率は前年同期比6.7%となり、政府が定めた今年の成長率目標の「6.5〜7.0%」をクリアした。その内訳では第一次産業が3.1%、第二次産業が6.1%であるのに対し、第三次産業の成長率は7.5%と、第三次産業の堅調な伸びが現在の中国経済を支えていることが明らかになった。
 一方で、日本国内では中国経済が抱えている多くの問題について、悲観的な論調の報道が目立っている。ただ、日本の報道では、昨年夏の株価の急落に代表される短期の問題と、中長期の問題が混同される傾向が強い。例えば、鉄鋼や石炭産業などにおける非効率な「ゾンビ企業」の存在や、銀行が抱える不良債権の処理、過剰な債務の削減など、いわゆる供給サイドの問題の深刻さが指摘されることが多いが、これらはいずれも今後時間をかけて取り組むべき中長期の課題である。
一方、昨年夏から今年の年初にかけて懸念された、株価や元相場の急落といった金融・資本市場におけるより短期の問題については、その後の政府による適切なマクロ政策により、基本的に危機的状況は脱したとみてよいだろう。
株安に代表される短期的な「危機」が生じた原因の一つは、リーマンショック後の景気対策の後遺症によって、製造業を中心とした債務デフレ(debt-deflation)が進行しているにもかかわらず、硬直的な為替制度のために適切な金融緩和が行われなかったことである。近年の中国では消費者物価指数(CPI)はプラスであったものの、生産者物価指数(PPI)はマイナスの状態が続いており、特に昨年には下落率が5~6%にも達した。過剰な生産能力と債務を抱え、収益の見通しがたたない企業が新たな投資を手控えて不況に陥る、典型的な債務デフレの状況にあったといってよい。  
 昨年末以来、中国人民銀行は、主要通貨によって形成される通貨バスケットを参照しながら、人民元のドルに対する変動幅を緩やかに広げていく、という対応策をとってきた。政策への信頼性を高めるため、人民銀行は昨年12月に通貨バスケットの各構成通貨の比率を公表し、中国外貨取引センター(CFETS)を通じて元のバスケットに対する1週間ごとの変動比率を公表することに踏み切った。その結果、元の実質実効為替レートは今年年上半期で5.47%元安に振れており、政府当局の元安を容認する姿勢が明らかになった。
 このような柔軟な為替政策への転換によって、それまで続いていた外貨準備の減少に歯止めがかかり、それまで大きなマイナスを記録していたPPIにも上昇の兆しが見られるようになった。このことは政府の「危機」への適切な対応として評価されてよいであろう。

 もちろん、懸念材料は存在する。例えば、2016年の1−7月期の民間部門の固定資産投資の累計額の対前年成長率2.1%と、統計の公表を始めて以来最低の伸び率となった。マネーサプライや社会融資総額は年率10%以上で伸びているため、マネーサプライや銀行貸し出しの増大が民間投資の増加と結びついていないことが分かる。
 このような状況を指して、かつて日本経済が「失われた20年」の時代に経験したような「流動性の罠」に中国経済も陥っているのではないか、という指摘もよく聞かれるようになった。この場合の「流動性の罠」とは、マネーサプライを増やしても、投資や消費など実体経済の増加につながらない状況を指す。そういった状況をもたらしているのが、民間部門だけで対GDP比170%を超えるまで膨れ上がった債務残高の存在だ。特に製造業を中心として、企業に業績改善の見通しが立たない現状では、いくら金融緩和を行っても過大な債務を抱えた企業は債務返済を優先させて需要を喚起する投資の拡大に資金が回らないからだ。
 ただ、だからと言って教科書的な「流動性の罠」の状況で想定されているように、現在の中国では金融緩和は無効なのだ、と判断するのは早計だろう。長らく低迷を続けてきたPPIにようやく上昇の兆しが見え始めたのは、為替政策の柔軟化によって一連の金融緩和の効果が現れ始めたからである。「流動性の罠」をもたらす企業のリスク回避的な行動は、デフレ下でこそ深刻化することを考えれば、金融緩和によるデフレ防止の試みは今後も継続される必要があるだろう。
 すでに述べたように、中国経済は元の減価を容認する柔軟な政策に転換したことによって、ようやく短期的な「危機」を脱したところにある。中国政府が、現在実施されている適切なマクロ政策で景気を下支えしながら、中長期的な懸案である供給側の改革を確実に実施していけるかどうか。日本の「失われた20年」の経験に学びながら、適切な政策運営を行っていくことが望まれる。