梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

嗤う日本のナショナリズム

 ここしばらくのエントリーの流れからいくといかにも唐突のようだが、ここのところ北田暁大さんの『嗤う日本のナショナリズムISBN:4140910240 のことが非常に気になっている。自分としては彼の示す見取り図にかなり違和感を抱いているのだが、まだなかなか思うようにまとめられない。とりあえずメモ書き程度に書きとめておきたい。

 この本の内容について紹介するのも今さらの間があるが、僕自身の頭の整理のためにまとめておこう。60年代的な政治主義(「自己反省」主義)、およびその最終形態としての連合赤軍事件に対して、80年代においてはそれらに対する「抵抗としての無反省」という意味合いをもった消費社会的アイロニーが登場し、一旦勝利を収めた。しかし、その常に「ベタなものにたいするメタ」を追求していこうとする自己目的化した運動がいきつくところまで行った後、90年代後半には「60年代的なものへの抵抗」という当初の目的を失った形式的なシニシズムが、そのよりどころとなる「反思想的思想」としてのベタなロマン主義と結びつくという現象がみられた。それこそが朝日・旧社会党的な「正義の語り」へのバッシングを基調とする2ちゃんねるシニシズム(=嗤う日本のナショナリズム)である、というのが北田氏の描く見取り図だ。


 しかし、果たして消費社会的なアイロニズムは60年代における「自己反省」的政治主義の隘路に「抵抗」の結果「勝利」したといえるのだろうか。糸井重里のような80年代的アイロニズムの担い手には確かに60年代的なものへの「抵抗」というモチーフも存在しているだろうが、それと同じくらい重要なものとして政治的な二項対立の構図に対する一種の「諦観」(自分達がどうあがいたって世界の二項対立的な構造は変わらない、ならばそれをできるだけ見ないようにして自分達で楽しいことをやろう)があるのではないだろうか。むしろ自分達の政治体験に裏付けられた「諦観」こそが糸井らの消極的な「抵抗」を支えていたように思えるのだ。
 しかし、80年代なアイロニズムの正統的な後継者として登場した(この点の分析については基本的に北田氏に同意する)2ちゃんねるシニシズムには、このような「諦観」が見事なまでに抜け落ちている。むしろ2ちゃんねる的なものを80年代アイロニズムとの連続性において捉える時に重要なのはこの「諦観」の欠如ではないのだろうか。
 
 例えば2ちゃんねるシニシズムによる「悪意あるツッコミ」は、一件脈絡がないようでありながら、「朝鮮人」「中国」「部落」「戦争責任」「フェミニズム」といった、80年代的なアイロニズムの雰囲気の元では「重過ぎる」として言及が避けられる傾向にあった「社会的弱者」あるいはそれをめぐる「学校民主主義的」言説への違和感がそのコアとして位置づけられているのは周知の事実である。だが、北田氏のように「メタを指向し続けるパラノイアックな行動原理」によって全てを説明しようとする立場からは、なぜ2ちゃんねらーは単にベタな語りなら何でもいいのではなく、上記のような「「重い(とされてきた)」話題についてのベタな語り」に特に突っ込みを入れようとするのか、がうまく説明できないのではないか。

 うまく言えているかどうかは全く自信がないのだが、80年代の消費社会的アイロニズムの進化した形として2ちゃんねるシニシズムを理解する場合、前者が「諦めた」もの、つまり「重すぎる」として語ることを避けていたものについて注目すること、そしてそれがいつから、なぜ、どのようにして頻繁に語られるようになったのか、ということを考察することがもう少し必要なのではないかと思う。その意味で、こういった具体的な「重い」話題(あるいはその語られ方)についての具体的な言及がほとんどなされないままに2ちゃんねるシニシズムが「批判」されている北田氏の言説には、やはり違和感を感じざるを得ないのである。