梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

コルナイと中国経済

 「嫁」といわれて素直に読んだ。

コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て

コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て

 訳者の盛田氏があとがきで嘆いておられるように、コルナイはその重要な主著の多くが完全な形では日本語に翻訳されておらず、また過去に翻訳されたものも多くが絶版になっている。しかし、少なくとも旧ソ連・東欧の経済問題の専門家だけでなく、中国も含めた広い意味での移行経済を専攻しているものにとって、コルナイは経済理論家としてある意味でサミュエルソンフリードマンなどよりも重要な存在であった。特に中国の場合、なによりも現在活躍中の経済学者の多くがコルナイの議論から、大きな影響を受けてきたという事情があるからだ。

 たとえば、代表的な中国書の古本サイトでコルナイの中国表記である「科爾内」を検索してみよう。
http://www.kongfz.com:8080/book.jsp?query=%BF%C6%B6%FB%C4%DA&page=0

 大部の主著である『反均衡』『不足の経済学』を始めとして、ここに出ていないものも含めれば軽く10点を越す著書が出版されている。特に80年代はコルナイの翻訳出版ラッシュと言う状況といっていい。また、中国の国有企業の改革などを論じた理論・実証的な論文には必ずといっていいほどコルナイの議論が引用されてきた。共産党指導の下での市場経済の導入という実験を始めた当時の中国の経済学徒の間で、コルナイの著作はまさにむさぼるように−日本の学界とは比べ物にならない切実さをもって―読まれたということがうかがえる。

 しかし、ここで上記の検索結果をもう一度よく見直すと、一つのことに気付く。そう、90年代に出版されたものが全くないのだ。ネットで調べた限り、主著の一つである'Socialist System'など90年代の著作がこれまで中国で翻訳された形跡はない。もちろんちょっとネットで検索をかけただけなので漏れもあるだろうが、90年代、すなわちベルリンの壁が崩壊し天安門事件が起き、江沢民が政権の座につくと同時に同時に、コルナイの著作は中国国内では80年代の出版ラッシュが嘘のように出版されなくなってしまった、といっても過言ではないだろう。

 誤解のないようにいっていくと、既に述べたように90年代にも中国語の学術論文などにはコルナイの著作は盛んに引用されていたから、この時期に彼の理論が中国のアカデミズムの中でもタブー視されたということは考えられない。しかし、こと出版に関しては何らかの政治的意図から実現が難しくなった、と考えざるを得ない。あるいは、天安門事件の挫折と92年の南巡講話以来、既存の政治体制を温存したままで外資主導による経済成長路線が軌道に乗る中で、経済の効率的な運営を目指すうえでの社会主義の体制変革の不可避性を強調するコルナイの著作がかつてほどの切実さをもって読まれなくなった、と言う事情もあるのかもしれない。僕自身90年代後半から本格的に中国研究を始めたので、こういったコルナイに対する意識の「変化」についてはよくわからない。

 しかし、21世紀に入ると状況はまた少し変化する。中国を代表する改革派のエコノミストである呉敬蓀が編集主幹を勤め青木昌彦編集委員になっている『比較』などの学術誌でコルナイ自身の論考が紹介されたり、コルナイの所説をめぐって盛んに議論が展開されるようになる。また2003年には2001年の著作'Welfare, Choice and Solidarity in Transition'(Karen Egglestonとの共著)の翻訳も出版されている。

 このようないわば「コルナイ・ルネッサンス」の背景として、80年代に学生としてコルナイをむさぼるように呼んだ人々が大学やシンクタンクでそれなりの地位を得るようになり、私営企業家の入党や国有企業の財産権改革が改めて大きな政治経済的な課題となる中で、反対派から「新自由主義者」として批判されながらも、コルナイを理論的支柱の一つにしながら改革の一層の推進を主張しているーーこのような見取り図を描いてもそれほど的外れではないのではないだろうか。

 そういう意味で、改革開放以降の中国経済のうねりを語る上でもコルナイの一連の著作は避けて通れない古典だといっていい。また、コルナイが経験した東欧と中国の政治・経済的な状況の違いを考える上でも本書の記述は実に興味深い。値段が値段なので飛ぶようには売れることはないだろうが、本書が広く話題を呼ぶことで、彼の過去の著作の出版・再版に向けての動きにも弾みがつくことを願わずにはいられない。


補足: このようなコルナイの理論が中国人経済学者に与えたインパクトを考える上でちょっと気になるのは文中に出てくる中国人名で通常の表記とは明らかに異なるものが散見されることだ。例えば272ページにコルナイの「ソフトな予算制約」理論に数学的な厳密な形式化を行った若き中国人としてインギ・シアンという「女性」が登場するが、これはどう考えてもUC Berkeleyのチエン・インイー(銭頴一)教授であろう(もちろん男性)。このほか、336ページに出てくる「チェンガング・シュー」は許成鋼(シュー・チャンガン)氏だと思う。全体としてわかりやすい丁寧な訳業だけに、惜しまれる。