梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

再び「血汗工廠」を論ず

 なんかバークレーのキャンパスで例の裸のパフォーマンスを目にしてからスウェットショップ(血汗工廠)問題のことが気になって仕方がないのだが、まんまと彼(女)らの策略にはまってますでしょうか。

 それに関連してdojinさん(id:dojin:20060518#p1)が、クルーグマンによるスウェットショップおよびそれに対する反対論についての記事を紹介している。
http://web.mit.edu/krugman/www/smokey.html

 この記事のミソは、「スエットショップに反対する人々は途上国の低賃金労働と自分達の快適な暮らしが直接結びついているという現実に倫理的な問題を感じているのだと思う」というdojinさんの引用した箇所のすぐ後に、次のようなこの問題についての経済学の立場からの標準的な解説がある点だ。'Bad jobs at bad wages are better than no jobs at all' というこの記事のタイトルがその内容を良く表している。

 First of all, even if we could assure the workers in Third World export industries of higher wages and better working conditions, this would do nothing for the peasants, day laborers, scavengers, and so on who make up the bulk of these countries' populations. At best, forcing developing countries to adhere to our labor standards would create a privileged labor aristocracy, leaving the poor majority no better off.

And it might not even do that. The advantages of established First World industries are still formidable. The only reason developing countries have been able to compete with those industries is their ability to offer employers cheap labor. Deny them that ability, and you might well deny them the prospect of continuing industrial growth, even reverse the growth that has been achieved. And since export-oriented growth, for all its injustice, has been a huge boon for the workers in those nations, anything that curtails that growth is very much against their interests. A policy of good jobs in principle, but no jobs in practice, might assuage our consciences, but it is no favor to its alleged beneficiaries.

 要するに、こういう一見「冷たい」ロジカルな解説だけを行うのではなく、実際に起こっている反対運動にもきちっと目を留めて共感を寄せているところがクルーグマンの偉いところで、他の経済学者もこのところは見習って欲しい、ということがdojinさんのおっしゃりたいことだと思う。この指摘は至極もっともで、僕としても全く異存はない。


 ただ、もう一つ別の点からの見方もできるのではないだろうか。それは以前のdojinさんのブログのコメント欄でも少し述べたが、この問題を語るときの「現場主義」「現場感覚」によるバイアスに関するものだ。といっても僕自身現場主義を語れるほど現場を豊富に見ているわけではないので、「土地勘」によるバイアスと言った方がいいかもしれない。要するに、例えば中国なら中国についてなまじ土地勘があり、農村や都市での人々の生活について比較的具体的なイメージを抱くことが可能なゆえに、かえって「スエットショップ」での労働実態が実感としてそれほど非人道的なものには思えない、ということがある。このため、そういった極めて大雑把なイメージしか抱いていないように思える反対運動に対して不信感を抱いてしまう、というわけだ。

 この点クルーグマンはどう考えても「現場主義」とはほど遠いところにいる人なわけで、だからこそスエットショップに嫌悪感を示す欧米の青年達に容易に共感を示しうる、という面もあるのではないだろうか。逆に言えば、クリストフやウーダンのほうがそういう運動に対して冷たいのは彼らが「現場派」であることと無関係ではないように思える。

 ただこれには裏表があって、あまり現場感覚に頼りすぎると、自分の見てきた地域以外のもっと深刻な事例について想像力が働かなくなるということはあるかもしれない。たとえば以前NYTの記事で、バングラデシュなどからの出稼ぎ労働者が主要な労働力となっているヨルダンのアパレル工場の例が紹介されていた('An Ugly Side of Free Trade: Sweatshops in Jordan'ただし記事は有料)が、記事を読む限りそこでの労働条件は確かに劣悪で非人道的だとしか言いようがないものである。こうした国際移民の問題を含んでいる場合、たとえ工場の労働条件がどれだけ劣悪でもそこから逃げ出しようがないだけに、深刻な状況になる例は多いだろう。こういったヨルダンの状況については僕も記事を読むまで全く知らなかった。

 もちろん、これに比べて中国の工場には問題がないというつもりはない。実際かなり劣悪な状況のところも多いだろう。例えばスエットショップの中国語訳である「血汗工廠」を検索してみたところ、おびただしい数の記事がヒット(id:kaikaji:20060430)し、こういった工場での労働条件の厳しさを訴えている(もっともこれらの「血汗工廠」批判記事の中にはRadio Free Asiaや『大紀元』など反政府メディアによるものが多いことはやはり考慮に入れておくべきだろう)。

 ただ、ざっとこれらの記事をチェックしてみると、労働条件が劣悪な「血汗工廠」として指摘されているのはほとんどが深センなど珠江デルタの工場に限られていることがわかる。周知のように、こうした地域はほとんどが農村からの外来ワーカーに頼っているためもともと社会保障費の負担が低い上、法の目をかいくぐってそれを払っていないところも多い。もちろん外資系企業は規制を守っているところがほとんどだが、先進国のアパレル会社では地元の企業に生産を委託しているところも多いので、実際にはどの製品が地元の企業によって生産されたか判断することは困難である。

 一方上海市郊外の嘉定区などでは工場ではもともと外来工の流入が制限されていることもあって企業は賃金の4,50%程度の社会保障費を負担しなければならない。また深センなどに比べると政府の規制も厳しいため抜け道を探すことは困難である。ただし、上海郊外でも例えば蘇州などでは近年外来ワーカーを積極的に雇用する動きがあるが、このためか蘇州については「血汗工廠」の状況を告発する記事もいくつか見つけることができる。
 …というわけで一口に中国の「血汗工廠」といってもそれをめぐる状況はなかなか複雑なのだが、「中国製のアパレル製品」へのボイコット運動を展開するバークレーの学生がその辺の事情を踏まえているとはどうしても思えないのだ。

 こうした途上国の低賃労働について考える際の、日米の学生の「現場感覚」の違いといったものを最も端的に示しているのが、キャンパスでスエットショップ反対のパフォーマンスに参加する学生と、夏休みなどに大学の先生の紹介によってそういったスエットショップでのインターンシップや研修に参加する学生との対比だろう。例えば以下のサイトで典型的な労働集約生産を行っている日系企業での研修に参加した学生の体験記を読むことができる。
http://www.booktci.shin.com/ 
 もちろん、その体験記を読めばわかるように、彼(女)らはそういったスエットショップの現場で農村から出稼ぎに来たいたいけな女工達がいかに劣悪な条件で働かされ、搾取されているか、その実態を暴くために工場に乗り込んだ・・わけでは全くない。かといって研修に参加した学生達の問題意識が低いというわけではない。それどころかゼミでの活動をまとめて本にまでしてしまうのだから、日本の学生の中では極めて意欲的な部類に入るだろう。ただ問題意識の持ち方がバークレーの学生達とは全く違うのだ。そして彼(女)らの「まず現場から入る」という方法論が、その問題意識のありかたにも大きく影響していることは確かだと思う。
 それにしてもこういった日本の学生とボイコット運動に参加するバークレーの学生との意識のギャップのあまりの深さ―こういう考え方もありうる、ということさえお互いに気がついていない―を目のあたりにすると、やはり教育者の端くれとしてはいろいろ考え込んでしまう。

 …という風に色々書いてきたが、こうしてみるとこのような「現場感覚」によるスエットショップ問題に対する立ち位置の違いは、以前に取り上げたウィリアム・イースタリーによる開発援助における'Plannner'と'Seacher'の対立の構図とかなり重なる点が多いような気がする。その意味では「グローバル化と経済開発」をめぐる先進国と途上国のギャップ、また先進国の中における日本と欧米諸国との意識のギャップ、を考える上では格好の題材かもしれない。だからこそこうしてこの問題を長々と引きずっているのであって、決して裸のパフォーマンスだけが気になっているわけではないのである。