梶ピエールのブログ

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マルクスからカント、そしてヘーゲルへ

経済大陸アフリカ (中公新書)

経済大陸アフリカ (中公新書)

 すでにあちこちで高い評価を得ている本書だが、個人的には「アフリカ問題を考えることは、これからの国際秩序のあり方について考えることだ」そんな感想をいだかせる内容の濃い啓蒙書だった。
 現在のアフリカの経済成長といえば中国の経済援助や企業進出は切っても切り離せない関係にある。そんな中国の関与はアフリカ諸国にとって「ベストなものではないがベターである」というのが本書を読んで得られた感想だ。確かに、中国のアフリカ進出は完全に資源確保のためであって、何かご立派な理念がそこにあるわけではない。ただ、一方的に収奪しているわけではなく、間違いなく現地経済の成長に寄与している。その意味で中国のアフリカ関与が「新植民地主義」だという欧米諸国の批判は的外れだ。よく行われる「中国企業はアフリカ進出にあたってワーカーも中国から連れて行くため、現地の雇用拡大に寄与していない」という批判だって、中国企業があくまでも市場原理に忠実に、合理的にふるまった結果に過ぎない。そのへんの事情は、以下の山下ゆさんによるブログ記事で簡潔にまとめられている。

http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52022462.html

 アフリカ諸国では農業生産性が非常に低く、多くの国で穀物の自給が出来ず、人口が増加して必要になった穀物は輸入に頼っています。そのためアフリカの食糧価格は他の国に比べて高めで、そのぶん都市生活は高コストになります。
 そのため、アフリカでは低所得にも関わらず給料をそれなりに払わないと人を雇えないという状況があります。この本の136pで紹介されている製造業平均賃金を見ると、中国3853ドル、タイ2233ドル、インドネシア1667ドル、ベトナム802ドルに対してセネガルは4832ドル、ケニアは3012ド ル、ウガンダは1832ドル、エチオピアで1326ドルと、アジアに比べてアフリカ諸国の賃金の高さが目立ちます。
 つまり、現地の人を雇うよりも中国人を連れてきたほうが安上がりな経済状況があるのです。

 ですから現在のアフリカの経済成長は農業や製造業における生産性の高まりなどによってではなく、ほぼ資源開発と資源価格の高騰によって引き起こされています。


 さて、1950年代から60年代にかけて経済発展論のパラダイムとして、いわゆる従属理論や、その影響下にある議論が、一定の影響力を持っていた。これは、本書にも触れられているように、「(国際貿易を通じた)先進国による途上国の搾取」というネオ・マルクス主義的な問題意識に立っていた。その背景には、いわゆるプレビッシュ・シンガー命題、すなわち工業化への離陸をまだ遂げていない途上国にとって、主な輸出品目である一次産品の交易条件が次第に悪化していくため、自由貿易を通じた経済発展の道は閉ざされている、という前提のもとに成り立っている。産油国によるOPEC形成以前の1960年代まで、この命題は確かに一定の説得力を持っていた。

 ただ、世界経済に対する従属論的な見方は、1960年代にアジアNIESの輸出指向工業化の成功により、急速に説得力を失っていく。ちょうどその時代は先進国に於けるケインズ経済学の影響力が急速に失われていく過程と重なっていた。このため、マクロ経済学だけではなく開発経済学の分野でも政府の介入に批判的な新古典派パラダイムが主流の役割を果たす。
 だが、もう一つの重要な役割を果たした経済開発論のことを忘れてはならない。それがいわゆる経済成長以外の保健衛生など経済厚生の実現と、それを阻んでいる貧困の削減に焦点を当てたいわゆるBHN(Basic Human Needs)アプローチだ。こうしたBHNを重視する経済開発論の流れは、その一部はアマルティア・センによる「人間の安全保障」へと受け継がれていくし、一部はジェフリーサックスらに主導された「ミレニアム宣言」につながっている、と考えてもいいかもしれない。
 1970年代以降の、世界銀行など国際機関による開発援助のプログラムは、一部ではネオリベラリズム一辺倒だったかのように思われているが、実際は新古典派経済学に基づいた「自由化」アプローチと、BHNアプローチの「棲み分け」によって担われていた、というのが僕の理解である。



 さて、このBHNアプローチ、特にセンやサックスに受け継がれている貧困削減を支えている思想的バックボーンとして、カントが『永久平和のために』などで提唱した、「グローバルかつ普遍的な正義論」を挙げることができるかも知れない。ここでいう、「グローバルかつ普遍的な正義論」とは、「途上国の貧困を見て見ぬふりはできない」という素朴な発想から出発し、それに根拠を与える思想である。一部ではこれが「途上国の貧困は先進国のエゴによる」というネオマルクス主義と結びつくこともある。柄谷行人による、カントとマルクスを結びつける思想は、その意味ではグローバル時代の批判的思想として根拠を持っているのだ。

 では、このような「グローバルな正義論」に基づいた貧困削減プログラムは、実際にどの程度成果を上げたのか。本書が示しているアフリカ経済の現実は、冷酷なまでにその「役に立たなさ」をさらけ出してしまう。ジェフリー・サックスの理想主義を現実を見ていないプランナーのお題目として批判したのはイースタリーだが、彼が示すとおり、ついこの間までのサブサハラ・アフリカ諸国は「援助がつぎ込まれればつぎ込まれるほど貧しくなっていった」。それが急に反転して成長を示したのは、(サックスが主張したように)大規模な援助のお陰でも、(イースタリーが望んだように)アフリカ諸国の自立的工業化のためでもない。それまで長くコモディティ化が進み下落が進んでいた資源化価格が上昇トレンドに転じ、アフリカに多い資源輸出国の交易条件が好転したからだ。

 そこで明らかになるのは「アフリカ経済の命運は資源価格次第」というあまりにも身も蓋もない現実である。このことは、逆説的な形でプレビッシュ=シンガー命題がまだ説得力を持っていることを示している、と言えないだろうか。つまり、多くのアフリカ諸国にとって資源価格の上昇は、普遍的な理想に支えられた援助よりも遙かに大きな影響を与えたのだ(逆プレビッシュ=シンガー命題?)。これはある意味で、カント的な正義論よりも、むしろネオマルキシズム的理解のほうがまだ現在のアフリカ経済を理解するのに有用だ、ということを意味しているのかも知れない。



 だが、もう一つ重要なのは、アフリカ諸国にとって何が一番欠けているのか、ということに関する認識だ。国際的な援助を受けても、資源価格が上昇しても、それをかつての東アジア諸国のように、自国の工業のテイク・オフに十分活かすことができないのはなぜか。「市民社会を基盤にした、国民国家の枠組みがしっかりしていない」、この理由に尽きるように思う。山下さんの上記ブログ記事の記述を見てもそのことは明らか(人のふんどしで相撲を取ってばかりですみません)だろう。

 こうした国では企業が利潤を生み出すというよりも、むしろ地主が地代(レント)を受け取るような形での経済活動が中心になっており、生産思考の希薄な、国家主義敵で保守的な政治を行う「レンティア国家」ができあがります(85p)。
  また、一部の人への富の集中も著しく、ジニ係数ナミビアで0.707!(2003年)、南アフリカで0.650(2005年)、ボツワナで 0.630(1993年)など、騒乱や暴動を誘発する危険値といわれる0.4をはるかに上回る驚異的な数字が並んでいます(90pの表参照)。

 もちろん、アフリカ諸国にこういった国民的統合なき「レンティア国家」化をもたらした最大の原因は、旧宗主国が恣意的な国境を引いたことによる。そのことの責任はいくら追及しても足りることはない。しかし、それにしても現在のサブサハラ諸国の多くが国民経済の形成に失敗しており、その故に東アジア諸国のように工業化という「離陸」を経験できていない、という事実は、厳然として存在している。
 やや乱暴なまとめかも知れないが、このようなアフリカの状況は、貧困の解決という「正義」を実現するために、市民社会の土台の上に築かれた国民国家の成立が何より重要である、という、いわばヘーゲル的な世界観に合致したものではないだろうか?
 柄谷行人だけではなく、カント的な普遍的正義論の意義があらゆる場面で強調される一方で、ヘーゲル的な世界観が批判を浴びるようになって久しい。しかし、本書に描かれたアフリカ諸国の停滞から成長へのプロセスと、それに対するカント的なアプローチの無力さを見せつけられると、やはりヘーゲル的な世界観でグローバル経済のなりゆきを見ていくことは重要ではないか、と改めて感じずにはいられない。中国のアフリカ関与を正統化するイデオローグである「北京コンセンサス」という奴も、実のところ古典的なヘーゲル主義に根ざしていたのでは、という気さえするのだ。

 ヘーゲルマルクス的な世界認識はやっぱり重要だ、なんていうと、吉本隆明があの世で「勝利だよ」と言っている声が聞こえてきそうだけど・・