前回に引き続き、むっちゃ刺激的で面白いです。平野義太郎と大上末広がこのように批判されることに全く異論はないが、だとすると尾崎秀美などはどのように位置づければよいのだろうか?
http://www.21ccs.jp/soso/chinateki/chinateki_32.htmlより。
例として戦前の日本資本主義論争(封建論争)を挙げよう。互いに激論を展開した両派、講座派も労農派も発展論的な視角をとっていた。だが、労農派を停滞論だと批判するものはいないであろう。誰も、戦前日本の農村にアジア的な特殊性を見いだした猪俣津南雄を停滞論とは批判しないだろう(『農村問題入門』 1937年)。筆者は、日本資本主義の停滞的側面を強調した講座派理論は、ある意味で「日本的停滞論」と呼ぶことができると考えているが、それは多分に比喩的な意味において(アジア的停滞論の連想から)そうなのであり、それが何か、アジア的停滞論に向けられたような非難に値するとは考えてはいない。だが、もう少し詳しく言及すれば、講座派にとって、この日本的停滞は、アジアに通底するものであった。より正確にいえば、彼らは日本にも他のアジア諸国にも、同じようにアジア的生産様式の歴史的な影響を見出していた。ただ、彼らは、そのことが、歴史的進歩を阻害するものだとは考えていなかった。むしろ、後進的であるがゆえに、アジアに革命が必要なのだと考えていたのだ。
しかし、そこに危うさも存在する。停滞を強調する講座派理論のアジアへの適用は、遅れたアジアもしくはアジアの特定の国家や民族を、進んだ列強が統治し、その植民統治により近代化をはかる、とする植民主義者に格好の理論的手がかりを与えることになった。なにしろ、講座派の著作には停滞のエレメント、停滞のレトリックが溢れており、それらのエレメントを他のアジア諸国に見出したり、或いは同じレトリックを適用すれば、たやすくアジア的停滞論が成立しえた。講座派の亜流、大上末広に代表される満鉄マルクス主義者の登場である。時期はずれるが、戦時中の森谷克己や平野義太郎のアジア的停滞論も、アジア的生産様式批判の立場に立つ秋沢修二のそれも、講座派理論のアジアへの適用という点において、同一の地平にある。
中国史における少数民族の社会構成は、奴隷制段階にあるとか封建領主制段階にあると説明されることが多い。そのような規定は、不可避的に、進んだ漢族の少数民族支配を肯定するものとなる。なぜなら、漢族は戦国時代以降、奴隷制から封建制に移行しており、中国史においてつねに進歩を代表してきたからである。イ族やチベット族の奴隷制に対し漢族の封建制は常に進歩を代表していた。西南の土司支配地域の封建領主制に対しては、漢族の支配王朝は、それより進歩した封建地主制段階にあった。このように、マルクス主義的言説においては、中国本土の支配王朝は、周辺諸民族に対し、上記のような規定自体において、つねに支配の正当性を主張しえたのであった。
状況の後進性を強調する点において、中共系理論家たちは、講座派に似たレトリックを使った。だが、政権奪取後、その後進性の強調を、主要民族が、少数民族に向けて使用した時、まったく別の意味を持つことになった。支配そして抑圧の正当化である。
※以下のエントリも参照のこと。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20080103/p2