ちょっと間が開いてしまったが、忌野清志郎のパフォーマンスを論じた文章について、その中の生活世界/システムという概念をもう少し考えから使いなさいということでsumita-mさんからツッコミをいただいていた。
URL: http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090521/1242870511より。
ここで援用されている生活世界/システムという図式には違和感を覚える。やはりハーバーマスの罪は重いというか。彼がパーソンズのAGIL図式を生活世界/システムという図式として改作して以降、そもそも現象学において使われていた生活世界という言葉が隠蔽され、頭を抱えてしまうということがある。ここで言われているような問題は、シュッツの論に沿えば、限定された諸意味領域(finite provinces of meaning)間の移行に伴う「意味変様」の問題として考えられるべきであろう。また、フッサールの『危機』における論点でいえば、「理念の衣」による生活世界の隠蔽、方法と実在の取り違えという問題。
この辺は難しくて僕にはわかりません。できれば厨先生にお伺いを立てたいところです。
・・・と投げ出そうと思っていたところに、小田亮さんがレヴィ=ストロースに依拠しながら「真正な社会」と「非真正な社会」という二分法について論じている文章のことを知った。
個人的にすごく参考になったので、少々長いけれど引用する。
http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/nijuusyakai.htmlより。
ところで、ハーバーマスもシステムと生活世界という社会の二層性という見方を提示している。そこで、それと非真正な社会と真正な社会の二層性の視点の違いについて、簡単に触れておきたい。レヴィ=ストロースの「真正性の水準」の区別の単純さが重要だと言ったが、そのことがそれによって明らかになろう。違いがどこにあるか、単純化していえば、ハーバーマスが、システムと生活世界の区別を、国家とその媒体である権力というメディアや資本主義とその媒体である貨幣というメディアといった構成要素の有無によって区別しようとしているのに対して、レヴィ=ストロースによる非真正な社会と真正な社会の二層性の視点では、特定の構成要素の有無ではなく、どのような関係のなかにあるかという様相の違いによって区別しているという点にある。たとえば、ハーバーマスのいうシステムは、端的には国家と資本主義(市場経済)からなっていて、生活世界というのは、そのような権力や貨幣というメディア(媒体)のない層だということになる。ハーバーマスのいう「生活世界の植民地化」とは、権力や貨幣というメディアが生活世界に侵入してきて、システムの特徴である道具的行為のネットワークがそこで形成され、コミュニケーション的行為からなる生活世界を歪めていくという事態を指している。ハーバーマスは、そのことが現代社会の「社会病理」の原因としているが、それは、それは「社会の二層性」がなくなるという結論に到達することにほかならず、それに対抗する手立ては、ハーバーマスの視点からは見出すことができない。
それに対して、非真正な社会/真正な社会の区別においては、真正な社会に貨幣や市場経済が入り込んでも、真正な社会の歪みや汚染とは見なさず、その区別は維持されるという見方にたつ。真正な社会には、もともと貨幣や市場交換があったのであり、真正な社会/非真正な社会の区別は、貨幣や国家権力といった媒体の有無によるのではなく、「一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるという包括的な経験」の複雑さが縮減されているかいないという区別によるものである。
正直なところ、システム/生活世界という用語を使うこと自体がどれほどまずいのかはよくわからないのだけれど、上で論じられているような近代における「社会の二層性」の説明には、非常に納得がいく。
そして、小田さんは、村上春樹がイスラエルで行った「卵と壁」演説を評するのに、やはり上記のような社会の二層性の概念を持ち出している。
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20090302/1236018531より。
高く堅固な壁の「冷たさ」に対抗するには、「唯一無二の代替不可能な(かけがえのない)魂」をつなぎ合わせることによってのみ得られる「温かさ」が必要であり、そこにしか希望がないというわけです。その「温かさ」は、一人の個人の魂からは生じてきません。代替不可能な魂のつながり=関係からしか生じないのです。そのつながりは、《システム》とは別のもうひとつの社会、真正な社会のことだといってもいいでしょう。そのことからも、村上さんが「個人と社会制度」といった一面的な対立のことを言っているのではないことがわかります。
《システム》に対抗する「社会運動」は、「代替可能な関係」からなる《システム》を作ることによってしか成り立ちません。代替可能な役割があって入替え可能でなければ、「社会運動」は維持できません。それは「新しい社会運動」でも同じことです。しかし、それだけでは「社会運動」は、《システム》そのものが自身の生命をもつようになってしまうことを防ぐことができません。社会運動の論理や正義を、真正な社会(生活の場)に持ち込むことは、《システム》の側、壁の側に立つことになります。
さて、ここまで引用するとだいたい僕の言いたいことがわかってもらえるだろうか。
この小田さんの言葉使いによって僕の先日のエントリの内容を改めて言い直すなら、吉本隆明は忌野の反原発ソングに「社会運動の論理や正義を、真正な社会(生活の場)に持ち込む」姿勢を嗅ぎつけたために、「ハレンチ」であると非難したのだ、ということになるだろう。一方、忌野のFM東京を罵倒したパフォーマンスは、社会運動の論理を破綻させても、マスコミ関係者という顔の見える相手に対し「俺のメッセージにちゃんと答えろよ」と迫ることにより、あくまでも問題を「代替不可能な関係」の中の論理でカタをつけようとした行為として理解できるのではないだろうか。
あと、sumita-mさんが書かれていたことだが、忌野を「無垢」「ピュア」で語ることへの違和感というのは僕も共有している。例えば彼の歌の中で、「大人」が繰り返し肯定的なイメージとして語られるのに対し、「子ども」「ガキ」あるいは「すぐ泣くこと」がしばしば否定的なニュアンスで出てきていることからも、彼自身がそういうイメージで捉えられることに対しては何らかの違和感を感じていたのではないかと思う。
では、彼のイメージする「大人」とはどういう人間のことだろうか?
今回の話とのからみで重要だと思われるのは、彼の歌の中で頻繁に登場する、「金儲け」「ビジネス」に対する両義的ともいってよい態度である。それはデビューアルバムである『初期のRCサクセション』に収録されている、二つの曲のタイトルにすでに現れているだろう。
小田さんの言うような「社会の二層性」を前提とするならば、「この世は金だ」というメッセージと、「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」というメッセージは相矛盾するものではなく、むしろコインの裏表のようなものとして捉えるべきである。前者は代替可能な関係の下で生きなければならない現実のことを歌っており、後者はそんな現実に生きるなかでも守らなければならない、代替不可能な「魂」のつながりについて歌っているからだ*1。前に書いたことの繰り返しになるかも知れないが、忌野の偉大なところは社会的なメッセージ色の強い歌を歌う際でもこのような「コインの裏表」への鋭敏な感性を持ち続けてたところにある。
そして、これは個人的な思い入れに過ぎないかもしれないが、そういう現実の社会の二層性に多少なりとも自覚的に生きる人たちに向かって、忌野は「大人だろ、勇気をだせよ」(「空がまた暗くなる」)と呼びかけていたのではないだろうか。