梶ピエールのブログ

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知らぬは恥―不況脱出を名作に学べ―

 昭和三十二年から翌三十三年にかけて制作された、千葉泰樹監督の『大番』四部作は、昭和の流行作家、獅子文六による経済小説の草分けともいうべき小説を原作とし、日本経済の動向について臨場感あふれる描写娯楽映画である。当時は「知らぬは恥」とまで言われたこの大ヒット作を、現在では果たしてどのくらいの人が知っているだろうか。

 

大番〈上〉

大番〈上〉

 

大番〈下〉

大番〈下〉

 映画では加東大介演じる主人公赤羽丑之助、通称ギューちゃんは、色欲・食欲・金銭欲の権化のような人物で、四国の宇和島から一旗あげようと上京し、株屋の小僧として下働きをしている内に次第に才覚を現して財をなしていく。そして待合の女中をしていた時に彼と知り合い、以後内縁の妻のような存在として彼を支えていくのが淡島千景演じる「おまきさん」である。

 サイトリ(ランニング・ブローカー)で稼ぐペイペイの株屋に過ぎなかったギューちゃんの前に、この作品におけるトリックスターともいうべき「チャップリンさん」(東野英治郎)が表れ、「赤い夕陽の満洲に一本光るは線路だけ」というベタな「謎の言葉」を残していくことが、ギューちゃんが相場師として財をなしていくきっかけになる。作品の中では二.二六事件や盧溝橋事件でさえ、それ自体は短期的な金儲けの機会を提供するエピソードとして描かれており、そのような臆面のなさがかえって戦前の経済界の空気をリアルに伝えていて興味深い。

 が、ここで、むしろ注目したいのは、この「赤い夕日の満洲」のエピソード以降のギューちゃんのサクセス・ストーリが、岩田規久男編『昭和恐慌の研究』や、竹森俊平『世界デフレは三度来る』で描かれた昭和初期の金融政策とそれに対する市場経済の反応を背景としている点である。

 たとえば、満洲事変のあともしばらくは国内株式市場は停滞しており、満鉄株もなかなか上昇の機運が見えなかった。満鉄株が急騰し、ギューちゃんが初めに一財産を作るには、政友会内閣のもとで高橋是清が蔵相に就任し、1931年12月に金本位制から離脱するのを待たねばならない。当時、銀本位制を採用していた中国全土に対して満鉄は運賃を金建てで運賃を決定していたという(多田井喜生朝鮮銀行PHP新書)。これは当時満洲における日本の勢力範囲(満鉄沿線)において広く流通していた朝鮮銀行券が金本建てで発券されていたことによるものである。しかし、世界恐慌後の銀価格の暴落により、満鉄の運賃は銀建ての中国資本の鉄道に比べ大幅な高値を記録することになり、満鉄は満洲事変の前後は深刻な経営難に陥っていた。日本が金本位制を離脱しない限り、満鉄の株価が上昇するはずがない道理である。

 しかし、その後五.一五事件などの政治的な混乱もあって市場は一時的に停滞し、手痛い失敗をこうむったギューちゃんは逃げるように郷里に帰る。これは、金本位制の離脱が行われた後も政府による金融緩和政策が十分ではないとうけとめられ、一時的に相場が停滞していたことに対応している。日本の景気が本格的に上向くのは、ギューちゃんが郷里に帰っていた昭和7年暮れ、日銀による国債引き受けが実施され、財政出動と金融緩和のポリシーミックスが本格化してからのことであった。

 さらには、1934年になり、ルーズベルトアメリカ政府が金本位制を離脱し、金(および銀)の買上げ政策を実施すると、鮎川義介率いる日本産業(日産)などの鉱山会社が発行するいわゆる「産金株」が軒並み上昇し、それを先行買いしていたギューちゃんは大もうけをし、ついには自分の名前を冠した証券会社を兜町に構えることになる。しかし、その「ブルのギューちゃん」の野望も、日中戦争勃発後、政府による繊維製品を含む経済統制の強化により、それまで買い占めていた鐘紡株が暴落することで泡と消える。

 このようにみてみると、ギューちゃんの浮き沈みを見ていれば昭和初期の日本を取り巻く世界の経済状況、および日本政府の経済政策とその効果が手に取るようにわかるといっても過言ではない。「不況脱出を歴史に学べ」という声も高い現在、「知らぬが恥」とは言わぬまでも、『大番』はもう少し省みられてもよい作品ではないだろうか。

 残念ながら現在映画四部作を一般の人が観るのは困難だが、小説は中古市場で比較的出回っているようなので、気なった方はぜひお読みください。また、『大番』四部作を含む淡島千景出演映画についての貴重な本人インタヴューが満載の、こちら↓の本もよろしくね。

 

淡島千景―女優というプリズム

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昭和恐慌の研究

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世界デフレは三度来る 上 (講談社BIZ)

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世界デフレは三度来る 下 (講談社BIZ)

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朝鮮銀行―ある円通貨圏の興亡 (PHP新書)

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