http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080715/p2
断っておくと僕が「立腹」しているというのは厨先生の勝手な判断であって、こちらはどちらかというと穏便にスルーしようと思っていたわけで、だからこそ「体制サイド」の考えを直接知る上でより有用だと思う費孝通の本を推薦したりしたわけである。「ケツを舐める」云々のお上品な表現も厨先生が勝手に使っただけで、僕自身には「ケツを舐める」こと自体をどうのこうの言おうという意図はない。そもそも以前書いたように、僕は当事者でもない人間が中国政府を告発するという行為に対しては極めて懐疑的なのだ。むしろ引っかかっているのはそこからちょっとずれたところにある。
・・というわけで結局のところまんまと乗せられた感が無きにしもあらずだが、この機会に思ったことを少し整理してみよう。
例えば、モンゴル人の研究者・楊海英氏が著書の中で次のように書くとき*1、僕にはそれを批判する言葉を持たない。それどころか深い共感さえ覚える。そこには、「公正さ」を追求することと「今を生きる人びと」の現実を尊重することとの間の緊張関係が、ぎりぎりのところで提示されていると感じるからだ。
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「中国はいつ崩壊するか分からない」
と日本の中国研究者たちはよくこのように発言する。(中略)確かに、中国の長い歴史を振り返って見れば、分裂と統合のくりかえしである。そのような視点に立てば、いつ崩れてもおかしくはない。
このような言説には大きな欠点がある。それは、今を生きる人びとの思いを無視している点である。少なくとも、今の中国を生きている人びと、漢人だろうが、保安人だろうが、回族だろうが、中国の瞬時の崩壊を多分、強くは望んでいないだろう。彼らも中国にはさまざまな問題があるのを百も承知している。書斎派のシノロジストたちと違い、当事者たちは毎日のように腐敗と圧制のリアリティを体験している。それでも、彼らは現在、崩壊よりもまずは豊かになることを望んでいる。
何しろ、彼らはつい最近、やっと戦乱と政治的動乱から脱出できたのだから。そして、その戦乱の一端には日本もかかわっていた以上、日本人が中国崩壊を期待するかのような発言をするのは、やはり、慎むべきではないだろうか。
私たち少数民族に与えられた自治権は、ごく限られたものである。しかし、私たちには腰に爆薬を巻いて自爆する勇気もない。中国が瞬時に崩壊したら、西北のムスリムたちの豊かになりたいという夢もつぶれるだろう。豊かになる道を歩みつつ、中国との接し方を考え、彼らは模索している。
もし、明日に中国が崩壊したら、私の言説も邯鄲の夢で終わったこととしておこう。
(以上、「あとがき」より)
問題の『現代思想』「チベット騒乱」特集号に収められたいくつかの論考*2も、結論だけみれば上記の楊氏の言説と似通っているように思えるかもしれない。しかし、たとえば丸川哲史氏が次のように書くとき、楊氏の立場との決定的な差異もまた明らかではないだろうか。
西側の「人権」論者は、近代植民地主義によって達成した自らの「近代」的地盤を省みず、後発近代国家、あるいは第三世界の「野蛮さ」を暴露し告発しようとする。しかし考えてみるべきなのは、いわゆる先進国が第三世界の「人権」を問題にし始めたのは、70年代以降であるという事実である。つまり先進国が70年代の激しい労働運動のあとで、自国の製造業を主軸とする産業資本を自国の階級闘争の磁場を外側へ、つまり「第三世界」へと排出し、搾取関係を外に移転して以降のことである。この時間的脈絡と、いわゆる「人権思想」としての「フリーチベット」思想の勃興は、実に軌を一にしているように見える。(75ページ)
上記のような、「ブルジョワ人権思想」に対して「反帝」(今風に言えば「反グロ」「反ネオリベ」)の思想を対峙させる議論は、それこそ冷戦期から存在したものである。その筋の情報にそれほど精通しているわけではないが、かつては「人権」を声高に唱える左翼のほうが圧倒的に少数派だったはずだ。そういった「反帝」論を、今の時点で十分な思想的検証もないままに唱えることについての、思想的誠実さは当然問われなければならないだろうが、ここではそういう思想的立場を選択すること自体を問題にしたいのではない。
それよりも僕が愕然とするのは、むしろ今年の3月の「出来事」の前と後での、丸川氏たちの言説の見事なまでのブレのなさである。厳密な考証は省くが、確か氏は何年か前の反日デモの際も、ほとんど上記と同じことを主張していたのではないだろうか。反日デモの時と比べても、チベットでの「出来事」には不確実な点があまりに多いし、外部の政治的な声にかき消されていまだにほとんど「当事者」の声が伝わってこない、という点でも特筆に価する。しかし、だからこそ、あたかもあの時チベットで起こったことには何の不確実性もなく、想定の範囲内であって、したがって自分の旧来の主張を改める必要は全くないのだ、という姿勢をとることがどのような「意味」を持つか、ということについて、もう少し敏感であってもよいのではないだろうか。
実際には、「当事者」の声を伝えるメディアはチベット人作家ウーセル氏のブログをはじめとして、インターネット上では探そうと思えば決して難しくはなかったはずだ*3。どのような政治的立場をとる場合であっても、「今を生きる他者」の呼びかけに応えようとすることは可能である。その場合、もし論者が本気で呼びかけに応えようとする気があるならば、どのような政治的主張であったもそこになんらか「揺れ」「ブレ」が生じるはずではないだろうか。もちろん、それらが全て「政治的な意図によって捏造されたもの」と考えるならば話は別だが。このように考えたとき、上述の楊氏の言説に比べ、丸川氏が『現代思想』誌上で見せたブレのない姿勢は、「今を生きる他者」=当事者への「応答可能性」に対して絶望的なまでに閉じられているがゆえのものだ、と判断せざるを得ないではないか。
中国に限ったことではなく、民族問題は確かに複雑な問題を抱えている。それに対してたとえ人権思想であろうがなんだろうが、「絶対的な正義」の感覚で臨むことが危険だというのもその通りだろう。しかし、その「危険さ」から逃れるための細い道は、唯一「今を生きる他者」のかすかな呼びかけに注意深く耳を傾けることによってのみ担保されるものではないだろうか。「今を生きる他者」の呼びかけへの応答よりも、自らの信奉するイデオロギーの貫徹を優先させる「左翼」、そのような立場のことを、われわれは「スターリニズム」と呼び習わしてきたのではなかったか。
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