梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

「社会的」なるものをめぐる考察

 例の薬師院氏の本を読んだのがきっかけになって、と言うわけではないが、このところ、「社会」と「自由」の関係についていろいろ考えているのだが、うまくまとまらない。
 そんなところに、岩波「思考のフロンティア」の一冊としてすでにネット上での高い評価がみられる以下の本を読んだ。

社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)

 特にベンヤミンの『暴力批判論』を手がかりにシュミット批判などを織り交ぜつつ「社会民主主義」をラジカルな形で擁護した前半部分が刺激的だったが(逆に後半部分は福祉国家の歴史について不案内なせいもあってか、よく理解できない部分が多かった)、これをきちんと評価する能力はもちろん僕にはない。

 ただ、戦後のある時期までかなりの存在感を保ってきた「社会的」なるものが現在の日本において跡形もなく忘れようとしている中で、かつてその中にどっぷりつかっていた人々(具体的には、社会主義マルクスレーニン主義に何らかの期待をかけていた人々)こそが率先して―自分達がそれを忘れ去ろうとしているという事実それ自体から目をそらすことによって―その忘却を推し進めようとしているのではないか、という指摘は大変印象深かった。そこから、また例によって勝手に想像を膨らませてみたい。

・・さて、この日本において、かつて「社会的」なるものの只中にいたが、現在ではむしろそれに対して言葉を失い、沈黙しているかのように思える存在として僕が真っ先に思い浮かべたのは、戦後の部落解放運動、そして一貫してその中心を担ってきた部落解放同盟であった。 

 このような連想をしてしまう背景にはもちろん僕が育った環境のことがある。僕が通った小中学校は大阪の同和教育推進校で、小さい時から同和問題に関する教育をそれほどシャワーのように浴びて育った。当然、同和地区の友人の家にも何度となく遊びに行っていたのだが、その当時から彼らの暮らしに目だった「貧困」の影を感じることはなかった。そこに建てられた医療施設や入浴施設は、古くからある町のその他の施設よりもずっと立派だった。かつて差別と分かちがたく結びついていた「貧困」が、政府による再分配―もちろんそれを支える高度経済成長あってのことだが―を通じて、少なくともそれが差別の原因であるとはいえなくなるまでに解消された、という意味では、被差別部落をめぐる問題こそ戦後日本の「社会的」性格を体現したような存在であった、といってもあながち的外れではあるまい。

 しかし、その後の「同和利権」をめぐり、解放同盟にもバッシングの嵐が吹き荒れたことについては今更説明するまでもない。ただし、これはいくら強調してもしすぎることはないのだが、「社会的」なるものを志向する運動としての部落解放運動が、一定の「成功」を収めたゆえのジレンマ―経済学用語を用いればモラルハザード―を抱えていたことは、心ある内部の人々にとってはとうに気付かれていたことだった。既に80年代に出された藤田敬一『同和はこわい考』(阿吽社)に、そのような立場からの批判の良質な部分を見ることができる。
 また、10年ほど前小林よしのりとのコラボレーションによって出版された『ゴーマニズム宣言スペシャル・差別論』も、明らかに解放同盟の自己改革の試みとしての意味を持った試みだった、と思う。にもかかわらず、結局そういった内部改革に成功するよりも、外部からの激しい批判にさらされる方が先になってしまったのは周知の通りである。
 なぜこうなったのか、という点について、僕自身以前ある本をダシにして考えてみたことがあった。しかし、そこから何か考えが進んだわけではない。

 そんな中、netoさんが絶賛されていたので最近になって手にした以下の本は、この問題を深く考える上で手助けになりそうな力作であった。

コリアン部落

コリアン部落

 これは、被差別部落出身のライターが、日本のケースとは異なり被差別民が一箇所に定住せずに出自を隠しながら各地に徹底的に分散したため、その存在が「消滅」したとされてきた韓国の「白丁」の実態に迫ったルポルタージュである。だが、こう簡単にまとめてしまうのを躊躇させるような生々しいエネルギーにみちた作品でもある。たとえば、冒頭部に記された次のような問題意識にまず僕はしびれた。

盛んに解放運動を展開してきた日本と、「寝た子を起こすな」と沈黙してきた韓国。
この両国を比較することは、同時に部落差別というものからの解放について、二方向の答えを示すことにもなるのではないか。私はそう考えたのである。

中略

「もし韓国で実際に取材してみて差別がない、またはほぼ消滅状態にあるのであれば、実は「寝た子を起こすな」の方が、部落差別をなくすのに効果的だということになるのではないか。
 反対に、差別がなくなっていなければ解放運動もそれなりの効果があるということになる。これはもしかすると「近くて遠い国」日韓の、部落問題をめぐる二国間の、壮大なテストケースとなるのかもしれないと考えた。

 表現を変えれば、ここでは差別をあくまで「社会」問題として受け止め、その解決をはかることを政府、そして「社会」そのものに対して強く要求してきた日本の部落民と、差別が「社会」的に解決されることが全く期待できない、いわば徹底して「自由主義的」な環境におかれたため、「個人」としてその差別に対処するよりほかなかった韓国の白丁が対比されている、といってよい。

 だが、その社会哲学的にみても極めてまっとうな問いかけは、これまで誰も考え付きもしない、あるいは考え付いたとしても口に出されることのないものでもあった。「寝た子を起こすな」すなわち「ある地域に住んでいるために差別されるなら、別の地域に移り住めばいいではないか」と言う考え方は「差別の構造を根底で容認するもの」として、解放同盟を主体とした反差別運動の中ではまず第一に否定されるべきものとされてきたからだ。

 上原氏は、このような問題意識を抱いたまま、それをたった一人で「検証」すべく何度となく韓国各地を訪れる。そこで明らかになる韓国市民の「差別」に対する基本的な「構え」が、平均的な日本人のそれとあまりにかけ離れたものであることに、まず愕然とさせられる。恐らく、最も愕然としたのは著者の上原氏に違いないのだが、それでもあきらめずに取材を続ける中で彼がつかんだ「答え」らしきのものは・・ここからはぜひ実物を読んでいただきたい。

 さて、ここで話を市野川氏の本に戻そう。「社会的」なるものは、その「外部」にありながらそれを常に揺さぶる存在としての「他者」に対して常に開かれると言う意味での「民主主義」に支えられて初めてその息を吹き返すことができる、そうでなければそれは結局過去の歴史が示すように「画一化の暴力」にはまり込んでいくよりほかはない、というこの本のメッセージに、僕は基本的に共感を覚える。

 しかし、そのことは、例えばこれまで部落解放を訴えてきた人々が、同時に在日朝鮮人、障害者、外国人労働者、さらに性的マイノリティと言った人々の声にもしっかりと向き合うべきだということ「だけ」を意味しているのだろうか。それらの人々の「声」と同じくらい、例えば「「寝た子を起こすな」で何が悪いのか」という考えを抱いて運動の「外部」に出て行った人々、あるいはそのように生きざるを得なかった人々の「声」もまた尊重すること―「社会」を「画一化の暴力」から守るために必要とされる「民主主義」とは、本来そういうものではないのだろうか。
 もちろん、言葉の上で指摘するのは簡単だが、それを実現していくのはとてつもなく難しい。しかし、そういった難しい問題を考えていく上でも、『コリアン部落』と言う書物、およびその著者が切り開きつつある地平は、大いに示唆に富むものであると思う。