梶ピエールのブログ

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「可視化される他者」とナショナリズム


 例えば、大澤真幸氏は、ナショナリズムの「起源への関心」について次のように述べている(『ナショナリズムの由来』377ページ)。

ナショナリストは、ネーションの起源を、ネーションの領域からいくぶんかずれた外側に―いわば隣接的な外部に―見出す傾向がある。ナショナリズムは「起源」についての強い関心を伴う、ということについては既に述べておいた。その「起源」は、しばしば、ネーションの領土の外側に、つまり外国に位置づけられるのである。「日本人」の起源が「南島」にあるとか、ユーラシア大陸の「北方騎馬民族」にある、といったような理説が、その例である。こうした傾向は、時に、国境紛争を誘発する原因となる。起源となる聖地が外国に奪われているかのような感覚を生むからである。

 現在チベットが中国(人)のナショナリズムをかきたてているかのように思えるのは、大澤の言うように「隣接的な外部」であり、それゆえに歴史的に諸外国からの干渉を受けやすいところだから、と理解してまず間違いない。だが、それだけではないのでないか。地理的にだけではなく、心理的にも「周辺」に位置しているはずの問題が、それゆえにしばしばナショナリズムにとって中心的課題になる、ということがありうるし、チベットのケースもその例外ではないのではないか。

 誤解してはいけないと思うのだが、チベットに出稼ぎに来ているような漢族を除けば、一般の漢族の市民にとってチベット人は、決して「反目しあう他者」でもなければ「共存すべき他者」*1でもない。言ってみればそれは「見えざる他者」、地下鉄の構内で仏像を売っているのを別にすれば、日常生活の中で出会うことも、その「感情」を意識したりすることもない、普通の人々にとってはまずもって「どうでもいい存在」である。ほとんどの日本人にとって「アイヌ民族との共存」という言葉はまずリアリティを持たない。それと同じだ。

 しかし、マジョリティにとっての「見えざる他者」、それについて真剣に思いをめぐらすことはない存在―いわば心理的にも「隣接的な外部」―だからこそ、それが「外国からの干渉」によって「可視化」されることが何よりも耐え難いストレスとなる、ということがあるのではないか。たとえば日本のナショナリストにとっての「従軍慰安婦」「捕鯨」「北方領土」「尖閣諸島」などの単語が持つ意味を考えてみればよい。


 恐らくとこれと対照的なのが、ウイグル人と漢族との関係である。少なくとも僕が暮らしていた10年ほど前の北京では、市内にいくつかそれと分かるコミュニティ(「新疆村」)があり、そこかしこでシシカバブーを焼いている姿が見られ、さらにはそのコミュニティの「物騒さ」や彼(女)らによる「テロ」の危険性が人々の間でかなりあからさまに語られていたウイグル人のほうが、チベット人よりもはるかに「可視的」であり、それゆえに怖れられる「他者」でもあった*2ウルムチなど漢族が多く住む新疆の大都市では、その構図は一層顕著なものとしてあるだろう。

 一方、「西側」社会の同情を引くという点では、ウイグル人の主張はチベット人のそれに遠く及ばない。この「差別」的待遇自体が興味深い現象ではあるが、ここではおいておこう*3。いささか単純化してしまえば、マジョリティ自身がマイノリティに向ける視線と、「外部」からマイノリティに注がれる視線の強度が、チベット人ウイグル人ではちょうど対照的なのだ。このことは恐らく両者の「民族問題」としての扱われ方の違いに影響を与えている。
 例えば、1997年に生じた「イリ事件」にしても、水谷尚子中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧 (文春新書)』に収録されたインタヴューなどから、今回のチベットの僧侶によるデモ活動と同じような「現政権へのマイノリティからの異議申し立て」という性格を持っていたことは明らかである。にもかかわらず、政府はウイグル人にかかわる問題はあくまでも「テロ問題」として処理しようとし、国内・国際的にもなんとなくそれが通ってしまうという現実がある。実際、昨年アムネスティ・インターナショナル主催で行われたラビア・カーディルさんのスピーキング・ツアーのタイトルは「私たちは、「テロリスト」じゃない。」というものだった。

 もちろん、この背景には911以降の「テロとの闘い」の名の下に語られた国際情勢の変化がある。しかし、民族問題をとりまく基本的な状況として、ウイグル人の場合はマジョリティの「恐れ」と海外からの相対的無関心があり、チベット人の場合はマジョリティの「無関心」と海外からの(非常に)高い関心がある、ということもまた確かだろう。
 この点はあまり指摘されることがないが、かなり重要なのではないかと思っている。

*1:お互いに「共存すべき」なのに「反目しあっている」民族間同士の悲劇を描いた優れた作品として、例えば映画『ビフォア・ザ・レイン』があげられる。

*2:ただし、その後北京市の「再開発」のなかでウイグル人のコミュニティも強制的に解体され、彼(女)らもそのほとんどが「不可視」の存在として郊外に追いやられた。しかし、「国際社会」でそれが問題視されることはほとんどなかった。

*3:この「差別待遇」について、例えばhttp://macska.org/article/224における次のような記述を参照せよ。「仏教など東洋の宗教に妙に寛容なハリスは、中国による過酷な支配を受けているチベットを、帝国主義テロリズムを生み出したという主張への反証(チベット仏教は平和的だから無差別テロを起こさない、イスラム教は邪悪なのでテロリズムを起こす)として挙げている」。