梶ピエールのブログ

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「新農村建設」をめぐる議論

 先日のエントリid:kaikaji:20060318でのBaatarismさんとのやり取りを受けて、同エントリで紹介した『財経』3月6日号の「新農村建設」に関する座談記事のうち、「新農村建設」への批判、及び都市への労働力移動との関係が述べられたところがを訳出してみる。政府に近い立場のの農業問題専門家に対して、インタヴューアーである『財経』編集部が一応ツッコミ役になっているが、最終的には専門家達の主張(反論)がそのまま通る形になっている。


「「新農村」を評議する」
http://caijing.hexun.com/text.aspx?lm=2554&id=1550719

『財経』編集部: 現在のところ「新農村建設」に関しては疑問の声も挙がっています。すなわち、それが工業化および都市化に影響を与えるのではないかというわけです。「新農村開発」がマクロ的な経済成長全体に影響を与えることはありうるでしょうか?

陳錫文(中央財経領導小組弁公室副主任): 「新農村建設」が(経済成長の)機会喪失をもたらすかどうか、というのですか?国有地の譲渡金(「新農村建設」の財源の一つとされている)を農村に投入することによって、都市化および工業化が影響を受けるでしょうか?中には心配になって「新農村建設は、農民の口を肥えさせ過ぎる」などといったことを言う人もいるようですね。学術界での意見も分かれています。
 私は、こういった意見に賛成しません。こういった意見は、潜在的に現在の農村と都市の格差は正常で、不可避なものであり、なくすことはできない、と言っているのと同じです。計画経済体制の下で、中国は長い間農民、農村のことは農民自身で解決すべきだ、という一種の伝統的な観念を形成してきました。この観念は過去の中国の国情に決定的な影響を受けています。ただし、それは一種の方便であり、必然的なものではありませんでした。現在、中国という国家の実力がこれまでになく大きなものになりつつあるなかで、これまでのような考え方を続けることに道理はありません。
 農村を発展させることは、中国の経済発展の機会喪失にはなりません。外国の投資家は、もともと中国が人口13億人の大市場であると考えて投資をしますが、中国に来てみたらそのうちの10億人は消費者ではないことに気付くのです。このため、こういった外資系企業は一生懸命輸出に励むことになり、貿易摩擦はますます拡大します。しかし実際のところ、外資企業は13億の人口全てにその製品を売りこみたくてたまらないのです。

『財経』編集部: 「三農」問題の解決にとって、農村労働力の都市への移動は依然として必要なのではないのでしょうか?これはまだ議論が行われているところですが、新農村建設と、都市化の間にはどんな関係があるのでしょうか?農村労働力のコストが高まることによって、農民の都市への移動の動きは緩和されるのでしょうか?

陳錫文: そのような議論(農村建設が都市化の進展の妨げになるのではないか、という議論)はよくみられるものですが、はっきりいって誤解です。そもそも、中国の都市化比率は今どのくらいなのでしょうか?2004年を基準にしますと、国家統計局による都市化率の水準は43%で、都市化のスピードは年1.5%となります。このやり方で計算しますと、2025年には、中国の都市化率は60%以上になります。しかしこの計算方法は非常にミスリーディングです。この統計では1億人以上の農民工を都市人口としてカウントしていますが、こういった人々はそもそも「都市住民」ではありません。こういった人々は都市に住宅も持たず、安定した仕事にもつけず、都市の社会保障費を納入することもありません。
 したがって、年1.5%というペースで都市化が続き、中国の都市化の水準がすみやかに60%にまで上昇するとは、私にはとても思えません。一方、現在都市住民一人当たりの可処分所得は農民の一人当たり純収入の3倍強です。2005年の全社会固定資産投資額は合計8.8万億元ですが、農村に投資されている額は1.4万億元にも達しません。今後15年間の内に農村に4,5万億元ほどを投資したからといって*1、農村の状況はどれだけ改善されるでしょうか?
 専門家によれば、2025年ごろまでに、中国の人口は14.5億人でピークをむかえます。現在中国のの都市化率比率は43%ですが、もし将来これが60%にまで上昇するとしても、少なくとも人口の40%、実質6億の人々は農村に住み続けることになります。この6億人のためにも、農村建設を強化しなければなりません。たとえ100年後になっても、中国がアメリカのように農民人口が非常に少ない状況になるということはないでしょう。したがって、「農村建設が十分に行われれば、農民が都市に出て行こうとしなくなる」といった問題はありえないのです。

劉守英(国務院発展センター研究員): 農民が都市に出て行くという過程は不可逆なもので、農村建設によって若干それに影響を与えることが出来たとしても、完全に変えてしまうことはできません。中国の工業化は、実質的に珠江デルタ、長江デルタ、あるいは環渤海地域の一部などのいくつかの限られた地区における高度な工業化が牽引してきたものです。農村の余剰労働力は毎年こういった地域に押し寄せてきましたが、20年にわたって農民工の賃金は変化せず、これが中国工業の競争力の礎となってきました。しかし、これらの地域は現在土地が不足し、生産要素コストが上昇する、という現実に直面しています。また、工業が高度化した後の都市化の不十分さという問題を解決しなければなりません。このため、一部の労働集約的な産業は沿海部でも周辺の地域や、中西部地区に移転していかざるを得ません(後略)。

 …このやり取りを読む限り、結局この「新農村建設」を中心とした中国の「三農問題」への対処法は、格差をこのまま野放しにはできない、かといって農村から都市への無制限の人口移動は認められない、かといって農村部へのインフラ投資にも財源面で限界がある、というわけでこれまでどおりの制限つき人口移動を前提とした上でできる範囲での農村(近郊都市)建設を行い、少しづつではあるが格差の緩和を図っていく、という一種の妥協の産物にならざるを得ないようだ。まあ、政府に近い立場のエコノミストがこのようなことを主張を行うのはある意味で当然だと思うし、現実的にもそのほかの選択肢はちょっと考えにくいだろう。しかし、『財経』誌のような「新自由主義」的な改革を掲げているはずのメディアも結局のところこのような政策を支持せざるを得ない、という事実にはやはりちょっと考え込んでしまう。個人の住居や職業選択の自由が政府によって制限されることを認めてしまう「新自由主義」というのは一体何だろう、ということになるからだ。
 ただ、このようにある思想に理論的限界があるということは、かならずしもそれが現実に影響力を持たない、ということを意味しないので、『財経』誌を中心とした「新自由主義」的な改革の主張には、とりあえず今後も注意を払っていきたい。

*1:その前段に、「新農村建設」のために当てられる財政資金は3000億元ほどだという指摘がある