梶ピエールのブログ

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MUNICH

 町山智浩さんid:TomoMachi:20051206が今年の映画ナンバー1に挙げている『ミュンヘン(MUNICH)』が公開されたので早速観てきた。いやこれは確かに凄いです。日本で公開されたら何をおいても観に行ってください。というかこれが本当に『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』と同一の監督が撮ったの?と言うくらい、テーマや手法は確かに似通っていても本質的なところで断絶が生じているのではないか、というのがまず第一の印象。

 さて『シンドラーのリスト』と言えば思い出すのが12年ほど前、丁度大学の卒業式の日に、同じゼミの友人二人(いずれも男)とお茶を飲んだ後せっかくだから映画でも見に行こうということになり入ったのがこの映画だった。で、見終わった後、友人達は映画にいたく感動して涙を流さんばかりであったのだが、僕は最後まで全く映画に入り込めず、感動しまくっている二人を横目に非常に白けた気分で駅までの道を歩いた記憶がある(ちなみにその友人達とはそれ以来一度も会っていない)。
 その時はこの作品に感じた違和感についてうまく言葉にできながったのだが、その後、例えば稲葉振一郎さんが岡真理『記憶/物語』ISBN:4000264273メモの中で言及している、「凡庸な俗物を主人公とした、しかし結局は感動的でヒロイックでヒューマンな物語をホロコーストを舞台にしたてあげることによって、『シンドラーのリスト』は実際にはホロコーストという〈出来事〉の唯一無比性を隠蔽、抹消することに荷担しているのだ」と言うような批判をちらちらと目にするようになり*1、そんなもんかとなんとなく納得したような気分になっていた。しかし、『ミュンヘン』が登場した後では、そういった『シンドラー』や『ライアン』に対する批判的な評価も改めて考え直される必要があるかもしれない。
 極めて乱暴なまとめ方をしてしまうと『シンドラー』『ライアン』と『ミュンヘン』との最大の違いは、前者は戦争の中で「本来死ぬはずだった人命を救う」話であるのに対して後者は「本来殺さなくてもいい人達を殺しまくる」話である、と言うところにある。で、少なくとも僕は前二作における、つまり「救う」存在であるところの主人公には何の感情移入もできなかったのだが、新作の「殺す」存在としての主人公には激しく感情移入してしまったのだった。これはどういうことだろうか。その答えは比較的簡単で、後者の場合町山さんが指摘するように「自分がテロリストと同じことをやっていることに気づき苦悩する」姿が、これでもかと言うくらいにしっかりと(ここが重要。ある種の「政治的良心さ」を示すためにご挨拶程度にこういった苦悩を描いた凡作ならいくらでもある)描かれているのに対し、前者の主人公はそんな苦悩とは無縁の存在だというのがまずもって大きいだろう。またこのような主人公の描かれ方の180度ともいえる転換に伴い、例えば『ライアン』の時は、悲惨で暴力的な経験が「生き生きと」再現できると言うナイーブな思い込みに基づいている、などとして批判されたリアルな殺害シーンも、『ミュンヘン』においては全く異なる重さを持って現れてきているように思える(だからといって「〈出来事〉を隠蔽する物語」から逃れている、とまで言っていいのかはわからないが)。
 が、それにしても前作と比べスピルバーグの中で何が変化したのだろう?それだけ9.11以降のアメリカにおける政治状況は重いのだ、ということなのだろうか。ただそれこそあまりにもできすぎた「物語」と言う気もしないでもないが・・いずれにせよ、僕はそれを論じられるほどスピルバーグにもアメリカ映画にも詳しいわけではないので、とりあえずこの辺で。

*1:ただし稲葉さん自身はこのような批判への違和感を表明している。