梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

アカロフ先生講演メモ・まとめ編

 アカロフ講演メモ、いちおうまとめらしいものを書かないとな、と思いながらどうしようか、と考えていたのだが、気がついたらここでの議論に深く関わってくるようなエントリやコメントがいろんなところで飛び交っているようなので、この際、それらをサルヴェージすることでまとめに代えさせてもらおう。

その前に、これまでのエントリを一応まとめておこう。

http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20051118#p2
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20051120
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20051121#p1
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20051122#p1
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20051130#p1

 まず、稲葉さんに本田さんのブログのコメントで言及していただいた。
http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20051206#c1133858083

トイモデル自体を否定するのではなく、手持ちの貧しいトイモデルを以下に活用するかが多くの場合ポイントになるのではないでしょうか。もちろんもっとリアルな、現実に近いモデルを求める努力は必要ですが、それはモデルの簡便性を犠牲にしない限りでのことでしょう。もっとも詳しい地図は縮尺1分の1の地図です。そんなものはつかいものになりません。そうではなくて、ツボを抑えることが大事なのです。

 アカロフ氏の試みとは、簡単に言えば方法的個人主義と経済主体の合理性の仮定は堅持しつつ、その「合理性」の中身をより経験的・現実的な方向で定義しなおそう、ということだと個人的には理解しているが、これはまさに稲葉さんの言う「もっとリアルな、現実に近いモデルを求める努力」の一つだといえるだろう。

 また、こういった姿勢は、韓流好きリフレ派先生による、「世間知と専門知」に関する議論にもつながってくるだろう。

私は、純粋な理論的分析も必要であるし、また他方で時論や啓蒙的な発言も重要だと思っている。この分業の利益が実現される中で、実務の智恵が生かされるのであれば、経済学と世間の智恵は幸福な協調関係にあることになるだろう。逆に、世間の智恵が経済理論を感情的あるいは政治的思惑から圧殺すれば、そのような分業の失敗は、われわれの経済学への理解を著しく損なうものになろう

 その点でも、講演メモの「その4」で紹介した、「実質タームでは不利であるにもかかわらず、名目賃金が上昇しているほうがhappyだと感じる人が現実には多数派である」ことを示した「アンとバーバラ」の事例や、「経済現象を実質タームで考えることについての経済学者と一般人の間の相違」を示したRobert shillerのアンケート調査といった、「行動経済学」的な問題意識に基づく研究の結果をどう解釈するか、ということは重要な意味を持つのだと思う。
 この点に関する僕自身のコメントより。

 そもそもバーバラの方がハッピーだと答えてしまう経済主体は果たして「非合理的」なのか、という問題があると思います。こういう人たちは、たとえば賃金の上昇率が高い仕事は「景気がよさそうなので将来より大きな賃上げが見込めるだろう」と判断しているのかもしれない。
 ・・なぜこういうことを言うかというと、一般に経済学のモデルでは、「理論的には合理的でありうるはずの経済主体を、経験的にそうだからという理由で完全に合理的ではないと仮定する」ことは(進化ゲーム論などを除き)「恣意的な仮定」であるとして徹底的に嫌われますよね。断っておくと僕はそのこと自体には妥当性があると思っています。アンとバーバラの例で言えば、バーバラを選んだ64%の回答者が、もしたまたま経済学を知らないために合理的な判断ができなかったのだとしたら、やはりその結果を理論の基礎にすえるのはまずいと思います。それは、もし経済主体がきちんと経済学を学びさえすれば、価格の硬直性という現象は消えてしまうだろう、と言っているに等しいからです。そうではなく、本当にこの事例が価格硬直性の基礎付けを提供するものだというためには、バーバラを選んだ64%は何らかの合理性に基づいてそう回答したのだ、というようにいわば「合理性」の前提自体を考え直すような方向に議論を持っていく必要があると思うのです。そしてアカロフはそういう方向性を考えていると思います。


これについては、hicksianさんのこのエントリにおけるコメントが参考になる。

アンとバーバラの件ですが、“Near-Rational Wage and Price Setting and the Optimal Rates of Inflation and Unemployment”をチラッと読み直してみた感じでは、(経済学の訓練を受けていない)一般の人々の部分均衡的な見方を示す一例として考えているようですね。バーバラの方がよりハッピーだと答える割合が過半数を超えるという結果とインフレが実質的な購買力を低下させるという認識は一見すると矛盾しているようにも見えますが、生活者(消費者)/労働者それぞれの立場からインフレを見ている結果と解釈できますね。

 インフレ率が高まるにつれて(インフレが無視できなくなるにつれて)近似合理的(インフレのことは無視して価格・賃金設定を行うor考慮はするけどインフレ期待を完全に織り込むわけではない)であった経済主体もやがて完全合理的になってゆく。インフレ率が低い状況では近似合理的であることのコスト(=完全合理的であるときにえられたであろう利潤を見過ごしてしまうこと)はきわめて小さく、完全合理的になるだけの誘因とはならない。完全合理的であるためには情報収集等主観的・客観的なコストが必要であり、そのコストを補って余りあるほどの利得がないのであれば人は完全合理的には振舞わない。インフレ率が高まるにつれて近似合理的であることのコストが高まるために(あるいは完全合理的になることの利得が高まるために)完全合理的に賃金・価格設定を行う経済主体が増えてゆく。インフレ率が非常に高い範囲では、経済モデルが想定するように経済主体が完全合理的に行動するために垂直なフィリップスカーブが出現すると述べております。経済学を理解して完全合理的に振舞った方が利得が高いとわかっていても、インフレ率が低い状況では完全合理的に振舞うだけのインセンティブが働かない、ということになるかと思われます。

 これは、早い話がインフレ率が高いときとそうでないときとでは「合理的」という仮定が意味するもの自体が変わってしまう、という指摘である。これが本当に妥当なものかきちんと議論するだけの力は僕にはない。ただ、ここで重要なのは、「一般の人々は必ずしも従来の経済学が想定するようには経済合理的に行動していない」という調査結果に対して、「だから経済学の方法論的個人主義は誤りなのだ」と「世間知」の側に一方的に寄り添うのではなく、また「十分に合理的ではない(経済学の知識がない)個人をプレーヤーとして仮定するのはルール違反だ」と既存の「専門知」の殻に閉じこもるのではなく、「世間知」との生産的な対話によって既存の理論の「合理性」の概念自体を修正する、という方向性がはっきりと伺えることだろう。
 アメリカにおける70年代以降の古典的なケインズ経済学とケインジアン的政策の凋落は、「そもそも理性の力で社会をより望ましい方向に持っていくなんて無理だよ」という保守主義的傾向の台頭と密接に関係して来たと思う。そういった流れを覆すことができるかどうかは、こういった骨太かつ柔軟な理論的プロジェクトがどれだけ現実社会で影響力を持つかにかかっているといっても過言ではないのではないだろうか。

 ・・まあ、そんなところです。あとはアカロフ先生に早く本を出していただく(できれば啓蒙的なやつも)ことを期待しましょう。