梶ピエールのブログ

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『嗤う日本のナショナリズム』(続)

昨日の反日デモについて考えていて、以前取り上げた北田暁大さんの『嗤う日本のナショナリズムISBN:4140910240こととのつながりが少し見えてきたような気がした。結局、僕が反発を感じるのはほぼ同年代である北田さんの言説から濃厚に漂ってくる一種の「やりつくした観」に対してなのだと思う。


 先のエントリーid:kaikaji:20050331で

例えば2ちゃんねるシニシズムによる「悪意あるツッコミ」は、一件脈絡がないようでありながら、「朝鮮人」「中国」「部落」「戦争責任」「フェミニズム」といった、80年代的なアイロニズムの雰囲気の元では「重過ぎる」として言及が避けられる傾向にあった「社会的弱者」あるいはそれをめぐる「学校民主主義的」言説への違和感がそのコアとして位置づけられているのは周知の事実である。だが、北田氏のように「メタを指向し続けるパラノイアックな行動原理」によって全てを説明しようとする立場からは、なぜ2ちゃんねらーは単にベタな語りなら何でもいいのではなく、上記のような「「重い(とされてきた)」話題についてのベタな語り」に特に突っ込みを入れようとするのか、がうまく説明できないのではないか。

と書いたが、ここであげた「朝鮮人」「中国人」「部落」などは、いわば「(80年代的)アイロニーが通じない対象」である。「アイロニーが通じない対象」とは、それにについて語るときは二項対立の枠組みに乗っかってベタに語るか、スルーするしかないということだ。こういった話題に関して本気でアイロニカルにあるいは「よりメタな立場から、複眼的に」語ることがいかに難しいか。内田樹さんが昨年夏の重慶のサッカーアジア杯で起きたブーイングについて語ったエントリが、批判的なコメントの集中砲火を浴びたことを思い出してもらいたい。戦争責任問題などで従来の二項対立を脱構築するような柔軟な言論活動を行ってきた内田氏にして、そうなのである。つまり、その問題についてアイロニカルに語ろうとしても、それが相当腰の据わったものでなければ、強固な二項対立の力学によって結局は「どちら側か」に回収されてしまう、そのようなトピックは厳然と存在するのだ。
 80年代の消費社会的アイロニズムは、だからこそこの手の話題をスルーしようとした。また現在の2ちゃんねらーはスルーしない代わりにベタで排外主義的な発言をためらいなく繰り返しているように見える。だがそれは一旦消費社会的なアイロニズムを経過しているだけに単純なベタではない。この点では、彼らは「あえて」、つまりロマン主義的にベタなナショナリズムにコミットしている(「シニシズム」)のだ、という北田さんの分析に基本的に同意してもいい。

 ただ、北田さんの分析では見えてこないのは、繰り返しになるが2ちゃんねるシニシズムの主な攻撃の対象になっているのは(あるいはその排外主義が問題視されるのは)あくまでも「アイロニーが通じない対象」であるということだ。少なくともそれらの問題領域においては「アイロニー」による脱構築の果てにその頽落した形式としてのシニシズムが立ち現れる、というようなステップはみられない。なぜならそれらの問題領域ではそもそも政治的な二項対立が脱構築された(試みはあったにせよ)ことなど今まで一度もないからだ。だがこのことは同時にある種の「希望」が存在することを意味してはいないか。
 北田さんの形式主義的な見取り図では、「自己反省主義」→「消費社会的アイロニズム」→「消費社会的シニシズム」→「ロマン主義シニシズム」と続く流れはいわば外部の存在しない完全な自己運動であり、そこにはそもそも「出口」=「希望」などはないということになる。冒頭で触れたような濃厚な「やりつくした感」はそこから生じてくる。だが、実際はベタな二項対立が支配しておりそれがアイロニーによって脱構築されたことなど実は一度もない問題領域が存在し、まさにその領域での排外主義的な「ロマン主義シニシズム」の発生が問題になっているのだとしたら、話はまた変わってくるのではないだろうか。

 たとえば、一連の反日行動とそれに対する嫌中感情の高まりのなかで明らかになったことは*1「(タコ坪的なものであれ)お互いの多様性を認めること」という日本では80年代の消費社会以降自明になった価値観が日中間においてはまだ一度も実現していない、ということである。そうである以上、僕はたとえ「80年代的アイロニー精神の凡庸な反復」という批判を受けようとも、その価値観の実現(再現、ではなく)に賭けてみたい、と考えている。というわけで、北田さんの本から漂ってくる「やりつくした感」に対して、僕はやはり「あえて」こういっておきたい。「まだ手をつけられてさえいないことがこんなにあるのに、やりつくしたなんて思うのは100年早い」。
 

*1:また、今回の反日デモ騒動なんかで感じたことは、韓国・朝鮮問題についてはともかくとして、中国に関する問題について情報・意見を交換する場としては2ちゃんねるの関連板・スレッドはもはや急速に求心力を失いつつあるということだ。むしろ今や中国に批判的なネット世論の中心は有力な「チナヲチ」系ブログ――その運営者の多くが中国語に堪能であったり長期滞在経験を持つなど、現地の「事情通」としての側面を持つ――に移りつつある、というのが実感である。こういった現象も、北田さんのような2ちゃんねるシニシズムが現在の日本のナショナリズムの核心にある、という見取り図ではうまく捉えられないように思う。がこれはあくまで漠然とした実感にしか過ぎないので、とりあえず指摘しておくだけにとどめたい。