梶ピエールのブログ

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鈴木謙介氏のウェブ民主主義論

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

 鈴木謙介さんのグローバリゼーション論『“反転”するグローバリゼーション』は出てほどなくして買ったのだが、なんとなくピンと来なかったのでそのまま積読になっている。先日、日経新聞中島岳志さんによるこの本の書評が載っていたのだが、これを読んでも依然としてピンと来ないままだ。いずれまたちゃんと読んで「なぜピンと来なかったか」ということについて考えてみましょう。

 しかし、ほぼ同時に出た『ウェブ社会の思想』の方は面白く読んだ。たとえば、一口に「電子媒体によるコミュニケーション」といっても、それは携帯でメールを送りあうような関係にみられる「過剰な期待」と、一方で「どんな罵詈雑言を投げかけられるかわからない」ネット空間における「過剰なゼロ期待」との間で二極分化している、という指摘はかなり賦におちるものだった。また、若い世代のウェブ日記などにみられる「閉塞感」について、古谷実の『ヒミズ』と『シガテラ』を対比させながら描き出す手並みも鮮やかだ。

 特に興味深かったのは、ネット社会における民主的な意思決定のあり方を論じたくだりだ。この点に関して本書は、参加する人々が「民主的」で「正しい」意思決定を行わざるを得ないように誘導する(つまり「匿名」での中傷を行ったりすることが不可能になるような)アーキテクチャーを設計するべきだという「工学的民主主義」と、そのような意図的な誘導を行わず、グーグルの検索システムのように意思決定にかかわる母数を大きくすることで「みんなの意見は案外正しい」という結果が自然に生まれることを期待する「数学的(統計学的、といったほうがいいようにも思えるが)民主主義」という二つの方向性を示している。これは最先端のテクノロジーから生まれてきた議論のようにみえて、実は古典的な「積極的自由」と「消極的自由」の対立を受け継いものだ、という説明は分かりやすい。

 このところネット上で話題になったいわゆる「ネット蝗」をめぐる議論も、この枠組みによってかなりの程度うまくとらえられるのではないだろうか。たとえば、池田信夫さんなんかは現実の社会のルールとしては多分「消極的自由」の支持者だと思うけれど、ことこの問題ではかなり強固に「工学的民主主義」に近い議論を展開しておられるようなのが、ちょっと興味深い。

 ただ少し気になったのは、『CODE』などで有名なローレンス・レッシグの議論を、実社会における民主的意思決定を情報アーキテクチャの設計に優先させることを主張する「オールド・リベラリズム」として位置づけている点だ。だがこの見方は検討の余地があるのではないだろうか。僕の理解ではレッシグの議論の主眼は「社会にとって望ましい意思決定のあり方」というよりも、「人々の自由を拘束するアーキテクチャ」の危険性、およびそれをいかに制御するか、という点におかれている。その意味では彼の議論は必ずしも「工学的民主主義」と「数学的民主主義」の対立と同じ地平にあるわけではないし、またかならずしもリアル社会での「民主的意思決定」に信頼をおいているわけでもないと思うからだ。彼の議論は、むしろこのネット時代においては古典的な「積極的自由」と「消極的自由」という二項対立が成立しにくいことを指摘するものなのではないだろうか。

 それにしても、レッシグにせよ、鈴木さんがあげているサンスティーンにせよ、かの地ではこういう問題について考えることが憲法学者の仕事の一つになっているらしいということに、改めていろいろ考えさせられる。