梶ピエールのブログ

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 シンガポールの華字新聞『聯合早報』に、「中国におけるネット決済の普及と社会の変容−日本からの視点−」と題する論評を寄稿しました。
http://www.zaobao.com.sg/forum/views/opinion/story20171202-815600

 ただ、これは中国語の会員限定の記事なので、以下に元の日本語の原稿を公開します。

中国ネット通販最大手のアリババ集団が提供する電子決済サービス「支付宝(アリペイ)」について、日本でも導入される予定があることが報じられたことなどから、改めて注目が集まっている。近年の中国では、アリババ集団や騰訊控股などの大手IT企業が「情報の仲介者」としてプラットフォームを提供し、商取引に伴う不確実性やコストを劇的に引き下げつつある。このようなIT企業による膨大な顧客情報の集積を通じた取引プラットフォームの提供は、中国経済につきまとう「信用取引」の不備を補う機能を果たしてきた。また、スマートフォンのアプリを通じた簡便な決済手段の普及は、配車サービスやシェア自転車など、いわゆるシェアリングエコノミーの爆発的な普及を支えた。さらに、アリババ傘下のアント・フィナンシャルが提供する個人の信用スコア「芝麻信用」を利用した個人事業者向けの融資サービス「網商貸」は、貸し手と借り手の「情報の非対称性」を乗り越え、零細な個人事業主が低コストで融資を得られる道を開きつつある。
 ただし、一方日本も含め、海外メディアなどでは、中国でのネット決済の急速な浸透は、膨大な顧客情報が大手IT企業を通じて共産党政権にとってアクセス可能になる事態を意味し、ジョージ・オーウェルの小説『1984』さながらの「監視社会」化を加速させるとして警鐘を鳴らす声も少なくない。このようなネット決済の普及による社会の変容を、市民活動の監視や制約という観点からどのように考えていけばよいのだろうか。

 まず押さえておきたいのが、このようなテクノロジーの進歩やそれを牽引する企業が、市民にとって「できること、できないこと」を決めていくという状況は、特に目新しいものではないということだ。例えば、サイバー法などを専門とするハーバード大学教授のローレンス・レッシグは、15年以上前から『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』などの著作で、テクノロジーの進歩が社会における規制のあり方をどのように変えていくのか、鋭い問題提起を行っていた。
 レッシグは、市民の行動を規制するのに、「法」「規範」「市場」「アーキテクチャ」という4つの手段があることを指摘する。このうち、最後の「アーキテクチャ」を通じた行動の規制とは、公園のベンチに仕切りを設けることによってホームレスの人々がそこに寝転がりにくくするなど、インフラや建造物等の物理的な設計を通じて、ある特定の行動を「できなくする」ことを指す。レッシグは、コンピュータとインターネットによって生み出されたサイバー空間について、大手企業が提供するアーキテクチャを通じた規制によって、自由で創造的な行動が制限される度合いが強まっている、と警鐘を鳴らした。
前述の芝麻信用は、ネット決済やSNSのやり取りを通じて収集される個人の社会的地位、資産、取引履歴、交友関係などの情報から自動的に算出される信用スコアで、350点から950点までの数値をとる。この数値が高ければ高いほど、「信用度」が高い人とみなされ、宿泊の際の保証金が免除されたり、海外旅行の観光ビザの手続きが簡素化されたりするなどの優遇が受けられる。これは、一企業が提供するテクノロジーが個人の行動をより「お行儀のよい」ものに規律づけるという、典型的な「アーキテクチャを通じた規制」を提供するものと言ってよい。
 日本でも、こういった洗練されたテクノロジーを通じた「管理社会」「監視社会」の到来をどのように捉えるかについて、これまで活発な議論が行われてきた。例えば、日本で「個人情報保護法」が成立した2003年前後には、インターネットのインフラが整備されることによって個人情報が電子化され、政府によって一元的に管理される状況を、市民相互の相互不信を招くものとして警戒する議論が多かった。しかし、その後、街角や店舗などに設けられた監視カメラが犯罪の抑止・摘発にとって有効なものであるという認識がひろがるにつれ、ただやみくもに「監視社会」を警戒・批判する議論は次第に下火になっていく。それに代わって説得力を持つようになったのが、「私たちはどのような『監視社会』なら許容できるのか?」「『監視社会』とリベラリズムや民主主義と言った普遍的な価値をどのように両立させればよいのか」という議論である。
 法哲学が専門の大屋雄裕は、その著書『自由か、さもなくば幸福か』の中で、将来への主観的な不安に備える安心のシステム(セキュリティ)がそれ自体人々の「自由かつ民主的な」欲求から生まれている以上、「安心」を保証するための監視システムの導入は避けられないことを説いている。その上で、そういった監視社会が特定の立場にある個人を差別・排除しない、という近代的なリベラリズムの価値観と適合的であるためには、「社会を構成する全員が等しく監視の眼の下に置かれ、そのようなものとして平等であるような社会(=ミラーハウス社会)」であるほかはない、と主張している。

 中国のケースにおいてもネット決済の広がりや個人の信用スコアを通じた「格付け」の導入を、頭ごなしに「監視社会の強化」として批判するのではなく、これらの先行する議論を踏まえながら、より多面的な議論を行っていく必要があるだろう。
 例えば、今年7月には新疆ウイグル自治区において「テロ防止」という名目の下に、同自治区に居住するウイグル族の人々に対し、保有するスマートフォンに「百姓安全」という名のスパイウェアソフトをインストールすることを義務付けたとニューズウィーク誌などが報じた。このソフトウェアは、スマートフォン内の「テロリストや不法な宗教活動に関連するビデオ、画像、電子書籍、電子ドキュメントを自動的に検知する」機能を持つという。このように「監視する者」と「監視されるもの」の間の非対称性が明確であるような監視システムの導入は、明らかに大屋の言うような「全員が等しく監視の眼の下に置かれ、そのようなものとして平等である」という条件には適合しないだろう。
 一方、中国社会に生きる人々の多くは総じて利便さと表裏一体になった監視システムの導入に好意的である、という事実にも目を向けるべきだろう。もともと、中国社会は、伝統的に「法」や「規範」によるコントロールがなかなか浸透しない社会だった。為政者が苦労して法律を制定し守らせようとしても、あるいは儒学者たちが口を酸っぱくして「規範」の重要性を説いても、「庶民」に社会規範を守らせ得ることは容易ではなかった。庶民たちは、権力が押しつけてくるうっとおしい「法」に対し、その網目をかいくぐって「自由」にふるまう術に長けていたからだ。
 しかし、今のところアリババやテンセントなどのネット企業が提供するアーキテクチャを通じた規制に、人々はそれほど疑問も持たず、素直に従っているように見える。そこには、それらの企業が提供するサービスの利便性の高さに加え、中国のように「法」への信頼性が低い社会では、レッシグが説いたようにアーキテクチャが押し付ける規制に「法」をもって対抗する、という発想が希薄だという事情がある。また、公権力の側もアーキテクチャによる規制の技法に次第に成熟し、それを巧みに利用するようになった、という側面もあるだろう。
 ここで重要なのは、世界レベルでみれば、「法」による規制が貫徹していない社会の方が圧倒的に多数派である、ということだ。そういった(非西洋)社会では、現在中国で広がりつつあるインターネットのアーキテクチャを通じた統治のシステムは、たぶん大きな抵抗なく受け入れられていくだろう。そしてそのことは、「法」による規制が貫徹しているはずの社会の価値観にも徐々に影響を及ぼしていくのではないだろうか。
 いずれにせよ、こういった監視社会と法やアーキテクチャとの関係を考える上で、「いま中国で何が起きているのか」を無視したまま議論を進めることはできなくなりつつあることだけは間違いなさそうだ。

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