梶ピエールのブログ

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士大夫たちのハイパー・パノプティコン

セレモニー

セレモニー


 中国の反体制作家による、近未来の中国を舞台にしたディストピア小説。それだけで一定の先入観を持って、敬遠してしまう読者も多いかもしれない。かくいう僕もこの本について、先に台湾で出版された中国語版を手に入れていたのだが、帯の文句に「インターネット時代の『1984年』!」なんていう文句がでかでかと書いているのを見て、内容がなんとなく想像できるような気がしてそのままにしていた。で、このたび藤原書店から翻訳が出たのを知ってさっそく読んでみたのだが、なんのなんの『1984年』なんかよりずっとお下劣かつ痛快で、無茶苦茶面白い作品ではないですか。小説にしては値段がかなり高めだし、マーケットを中国関係の研究者やジャーナリストに絞っているのかもしれないが、そういう狭い範囲だけで読まれるのはあまりにもったいない、ディストピア小説の名作として今後長く読み継がれるだけの価値がある作品ではないかと思う。

 もっとも、ケン・リュウみたいな、最新の科学技術に関する豊富な知識を常に仕入れて創作のネタしている若い世代の作家の作品に比べたら、本書のSF的な道具立てはいかにも洗練されていない代物だ。何しろ、近みたいの監視テクノロジーとして用いられるのが「IOS」という、市販の靴にそれぞれ組み込まれたSIDタグで文字通り対象となる人物の「足取り」を追跡することができる(しかも男女の靴が同じ部屋でそろえておかれている状況をサーチすることにより、そのカップルがセックス中かどうかまで追跡できるのだという!)システムだとか、「ドリーム・ジェネレーター」という相手の性欲を昂進させてどんな相手でもセックスに持ち込むことができる装置であるとか(しかも必ず男性が女性に対して使用する、というPC的にどうしようもなくアウトな描き方がされている)、といういかにも古典的な、そしておもわず読みながら「なんじゃそれ!」という突っ込みを入れてしまいたくなる設定のオンパレードとなっている。

 だが、そういったことは本書を評価するうえではあまり重要ではない。著者・王の関心は何といってもテクノロジーそのものではなく、中国社会を動かす「権力」にこそにあるのだから。SF的にはいかにも洗練されていないテクノロジーの描写は、中国社会の権力の本質、あるいはそのテクノロジーとの関係を浮かび上がらせるために、あえて選び取られたものだと言えるかもしれない。そういった王の問題意識は「あとがき」にある以下のような文章を見ても明らかだ。

 コンピューターとインターネットの時代は、人間を数字の存在へと変えた。独裁者は、デジタル技術を使って、少数で多数を支配することができるようになった。ビッグデータはありとあらゆる痕跡を捉える。アルゴリズムはありとあらゆる疑わしいものを見つけ出す。独裁権力の人数は少なくとも、コンピュータの能力は人間の数万倍だ。独裁権力は、匹敵するもののない強大なテクノロジーを握っている。過去の独裁者のなしえなかったことを、今日の独裁者はなしえる。しかし、過去の抵抗者がなしえたことを、今日の抵抗者はなしえない。テクノロジーが独裁の手段を提供するだけではない。独裁にその物質的基礎をも提供する―現代の科学技術はもはや飢餓が起こらないことを保証する。

 しかし、三国志水滸伝のような「梟雄」や民衆の反乱などは一切登場せず、保身に努める官僚、野心を持った商人、辺境の一警察官、政治的白痴のエンジニア、といった「小物」しか出てこない『セレモニー』の世界では、そういった小物たちが、水も漏らさぬ監視体制で強固な独裁メカニズムを築いていたはずの政権を、あっけなく崩壊させる。
 このような状況が出現するのは、テクノロジーによる独裁には一つ、重要なアキレス腱ともいうべきものがあるからだという。すなわち、

独裁権力は、日進月歩するテクノロジーに依拠しなければならないとすれば、独裁者はそれら最新のテクノロジーを、自分では理解も管理も運用もできない。自ら操作する時間もないし、そのためにかけるエネルギーもない。専門家に命令して彼らに依拠するほかはないのである。だが、それらのテクノロジーと独裁メカニズムの結節点に存在する人間たちは、独裁メカニズムに対して、少をもって他を制する能力を有する。その一方、独裁体制が古来培ってきた内部の人間に対するコントロール手段は、彼らには通用しない。なぜならば、独裁者は新しいテクノロジーに対して無知だからである。

 テクノロジーは独裁権力を、難攻不落の要塞へと変えた。しかしその崩壊も突如としてやってくるのだ。テクノロジーによる独裁の直面する不確定性は、伝統的な独裁の比ではない。

 ニューズウィーク日本版での連載(中国の「監視社会化」を考える(2)──テクノロジーが変える中国社会 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)でも少し触れたように、現代の監視社会論が、一種の「ハイパーパノプティコン」すなわち、万人にが万人によって監視される社会、監視するものを厳しく監視する権利を市民の権利として認めていこうという流れの中にあることについては、すでにいくつかの指摘がある。
 『セレモニー』で描かれるのは、そういった「万人の万人による監視」ともいうべき状況が、社会のエリート層相互の間だけで働くようなメカニズムだ。小説の中で、ちゃんとした店で高級な靴を購入してそれを履いている人々は必ずアイデンティティを特定されてその足取りが事細かに記録され、監視される。さらには、その監視の主体である技術者や官僚、そして政治家たちこそが厳格な監視の対象になる。それに対して、安っぽい露天商で売られているような靴しか履かない庶民層は、IDによる監視の対象とはならず、いくつかのセグメント化された「マス」としてのみ監視されるにすぎない。その意味で彼(女)たち、特権階級よりも相対的な行動の「自由」があると言ってよい。

 つまり、支配階級は庶民とは隔絶した特権を得られる代わりに、徹底した相互監視(=ハイパー・パノプティコン)の状況に置かれる、というのが『セレモニー』の描く監視社会のイメージだ。これは、明らかに特定の存在=ビッグ・ブラザーが市民の行動すべてを監視するという『1984年』の世界観とは大きく異なっており、いわば「士大夫たちのハイパー・パノプティコン」とでも呼ぶべきものだ。そして、この「エリート」と「庶民」の二分法的な世界観が中国社会のの伝統的な統治観に照らしてしっくりくるものだということは、例えば岡本隆司の一連の著作(特に『中国の論理』など)になじんだものであればたやすく理解できるはずだ。
 『セレモニー』は、自らの特権的な生活と引き換えに喜んで「自由」を差し出すような「小者」感満載の士大夫たちが、その小者としての行動原理を貫徹させることによって、難攻不落の要塞のような支配体制を内部から崩壊させてしまう様子を緻密な構成で描き切った作品である。この作品が絶望的な状況を描きながらどこか痛快な読後感を残すのは、まさにその点にある。

 このほか、いたるところで出てくる「農村と都市」の対比、特に都市に生きる士大夫たちの世界と対照的な、まるで水滸伝の世界に戻ったような農村における権力闘争など、伝統的な中国社会の構造を踏まえた描写が、権力とテクノロジーという現代的なテーマを扱ったこの作品に於きなリアリティを与えている。
 というわけで、中国政治や民主化などに関心がある読者層だけでなく、ディストピア小説のファンだったり、監視社会の行方、みたいなテーマにに興味がある読者なら、一読しておいて決して損はない作品ではないだろうか。