梶ピエールのブログ

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汪暉、重慶事件を語る(上)

 岩波書店の月刊誌『世界』7月号に、 北京の清華大学教授で新左派の代表的な論客、汪暉氏による「重慶事件──密室政治と新自由主義の再登場」 という論考が掲載されている。
 中国の内外を問わず大きな衝撃を与えた事件に関する著名な知識人の発言であり、またその内容も色々な意味で興味深いものだった。論考の趣旨はおおむね以下の通りである。

1.今年二月に生じた王立軍の米国領事館駆け込み事件および薄熙来夫人である谷開来の英国人スキャンダルに端を発した一連の政治スキャンダルと、重慶モデルという「社会実験」の評価は、本来区別して論じるべき問題である。
2.重慶モデルという社会実験は農村都市化をめぐる「地方間競争」の一つのモデルであり、もちろんその方式には賛否両論あったものの、基本的にその成果は広く市民の評価に対しに開かれたものであった。それが今年の「両会」以来、「密室政治」のもとに葬り去られようとしているのは憂慮すべきことである。
3.重慶の社会実験を「密室政治」によって葬り去ろうとしているのは、天安門事件後のトウ小平による「南巡講話」で方向性が明らかになった新自由主義的な強権政治を徹底させようともくろむ温家宝、またそのブレーンたる呉敬レン、張維迎などの右派経済学者達である。
4.現代の「密室政治」の一つの特徴は、メディアを使った意識的な情報操作という手法が積極的に用いられることである。重慶の事件では、薄熙来の失脚後ただちに彼を支持する左派サイト烏有之郷が閉鎖されると共にニューヨークタイムズなどの西側メディアあるいは南方系などの国内右派系メディア、への意図的な情報リーク、を通じてそのような情報操作が行われた。
5.温家宝による一連の「密室政治」の横行が意味するものは、その権威主義的な政治手法と一体となった、「中国の特色ある新自由主義」の完成にほかならない。それは、中国の政治経済体制を西側諸国のそれに近づけ、グローバル資本主義との一体化を促進するもので、それは世界銀行が政府系のシンクタンクと組んで行っている「政策提言」とも呼応するものである。しかしすでに時代遅れとなった新自由主義的改革の導入は国内格差を一層拡大させる一方で政治ニヒリズムを蔓延させ、中国社会により悲惨な状況をもたらすだろう。

 ・・・僕はかねがね、重慶の問題は党内の派閥抗争という政治的側面、新左派、自由主義に代表される政治思想の対立という側面、農村都市化という難事業をめぐる社会実験という社会経済的側面、が不可分に絡みついた、きわめて複雑な問題だと考えてきた。

 一連の事件については最近『チャイナ・ナイン』を著した遠藤誉氏など、政権内部にパイプを持つウォッチャーによるかなり突っ込んだ分析も出てきてはいるが、あまりにも党内派閥という側面に偏った分析がなされ、農村の土地収用、社会保障改革、戸籍改革といった「重慶モデル」が一定の支持を受けた社会経済面での背景にまで踏み込んだ分析がほとんど出てこないことには苛立ちを感じていた。その意味では、重慶における社会実験の評価を一連の政治スキャンダルとは別にきちんと評価すべきである、という汪氏の指摘には確かに頷けるところがある。また、薄熙来失脚劇の一連の経緯には不透明な部分があまり多く、「密室政治」によって決められている、という現政権への批判も的を射たものといえるだろう。


 ただ、僕が汪氏の言説に共感できるのはそこまで。あとは、全ての元凶は「中国の新自由主義化」を企む温家宝およびその背後にいる国内外勢力にあるとする、あまりに党派的な意図が、華麗なレトリックの裏に透けて見え、かなり鼻白んだと言うのが正直なところ。以下、彼の論説に感じた違和感をいくつかの点にまとめておきたい。

まず第一に、社会経済的な面から重慶モデルを評価するのはいいとして、彼がその本質をつかんでいるとは思えない点だ。たとえば、汪氏は温家宝の進めようとしている(と彼が主張する)鉄道、医療、通信、エネルギーなどの分野における国有企業改革などの政策を「新自由主義的」と批判する。しかし、彼の言う「新自由主義」の定義は何だろうか?そして「重慶モデル」は彼が考えるほど「反-新自由主義的」なものだろうか?

 僕の見るところ重慶における農村都市化の実験のポイントは「打黒」といわれる汚職一層キャンペーンに代表されるように「資本家の冨を強制的にとりあげ、貧者に再配分する」ところにあるのではない。それはあくまでも象徴的な意味しか持っていない。学術書からtwitterでのつぶやきまで、これまで僕が様々なところで述べてきたように、近年の中国では「農民から安く土地を収用し、開発業者に高値で売り払う」ことによって、地方政府が巨額のレント収入を手にしてきた。そのレント収入を、他の地域のように地方政府が金儲けだけを考えた高級住宅や商業地の開発につぎ込むのではなく、土地を手放した農民にも一部(あくまでも一部)を還元しましょう、という姿勢を明確に掲げた点に重慶モデルの最大の特徴がある。
 つまり重慶で行われた「再分配」の流れは、「富者の冨を貧者へ」というよりもむしろ「貧者の冨(土地)を政府が一旦とりあげ、一部を貧者へ戻す」というものであったのだ。付け加えておくならば、このような重慶の改革の方向性は薄熙来が書記に就任する前の2007年6月に同市が「全国都市農村一体化総合改革試験区」に指定された頃からかなり明確だった。

 その意味で、重慶の「社会実験」は、土地市場に継続的に資本が流れ込み、価格が上昇しつづけるという資本主義的な基礎がなければ本来持続不可能なものだ。汪氏も言及しているデイヴィッド・ハーヴェイが喝破したように、新自由主義が「国家が提供する制度的枠組みの下での資本の自己拡大運動」なのだとしたら、資本主義と国家介入の混合形態である重慶モデルだって典型的な新自由主義的政策にほかならない。

 僕自身が理解しているところでは、重慶における「土地と戸籍の交換」を通じた一連の改革は、土地使用権の売却益という市場による変動要因が大きいものを財源としながら、毎年の事業支出の規模がそれとリンクするようになっておらず、かなり無理な点があったのは確かだ。ただ、同様の改革をより市場メカニズムを取り入れる形で実施した成都市のケースはかなり成功しているようなので、改革の評価をおこなうには、両都市のより詳細な比較が必要だろう。
 また、農村コミュニティによる農地の処分権を強化する形で農民の土地に対する「財産権」を強化し、あとは市場メカニズムに従って土地の開発に伴うレントの配分を行う、という「広東モデル」も「重慶モデル」と同じように新自由主義的な農村−土地問題の解決に関する処方箋の一つである(村民自治を求める運動として有名になった烏坎村のケースもこのような土地開発のレントの分配を背景として起こった問題である)。汪氏あるいは「烏有之郷」に集っていたような新左派知識人が、「広東モデル」は新自由主義的だが「重慶モデル」はそれに真っ向から対立するものだと考えているとしたら、その認識は根本から誤っていると言わなければならないだろう(続く)。