梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

アイデンティティと「風評被害」

 いまさら言うまでもないことだが、現在大震災による被害および原発事故で、生産者が深刻な状況に追い込まれている。
 特に、食物の放射能汚染に関する「風評被害」に関しては、関谷直人氏による問題点をコンパクトにまとめた良書(『風評被害 そのメカニズムを考える (光文社新書)』)が出ているほか、下記のウェブ記事で、経済学者の安田洋祐氏が情報の経済学を援用した風評被害に対する処方箋を提供している。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110817/222101/

 もちろん、ここで指摘されていること、とくに生産者からの情報開示を進めるためにシグナリングのコスト=放射能汚染の計測にかかる費用を政府が負担すべきだ、という点は現実的にも非常に重要だと思う。ただ、この問題が深刻なのは必ずしも「情報の非対称性」が解消されればそれで解決される、というものではないところにある。少し前のものになるが、以下のブログ記事がそのところを上手くくみ上げていると思う。

今、日本中で起きているケンカ

今、日本中で大なり小なり、
こうした問題が巻き起こっているのではないか。

放射能汚染の危機感から“東北”のものを食べないべきか。
汚染なんてたいしたことはない。というか「風評被害」だ。
今こそ復興のために“東北”のものを食べるべきだと。

放射能に対する危機意識は、
性別によっても年齢によっても地域によっても変わる。

 風評被害を典型的な「情報の非対称性」から生じる問題だ、と理解するならば、その原因は「正しい情報がみんなに共有されていない」ことから生じるのであり、「正しい情報をより低いコストで、より広く」共有させることのみが解決方法を提供するはずだ。かつては僕自身もそのように考えていた。だから、例の冷凍餃子事件が起こった後、消費者の中国製品忌避が顕著だった際において、同じような観点から月刊誌の文章を書いたことがある。
 だが、その後のスーパーから中国産と銘打った食品が潮が引いたように消えていく様子をみていて、問題は必ずしも情報の非対称性だけにあるのではない、ということに気がついた。そして今度刊行される『「壁と卵」の現代中国論』のウェブ連載では、アブナー・グライフの議論を援用しながら、消費者の中国産製品忌避のような現象は「内的規範」に支えられた自己実現的な制度として捉える必要があるのではないか、という議論を展開した。
 そして、冒頭にあるような東北産の農産物についての問題について考えるうちに、上記のような消費者の「内的規範」から生じる風評被害のような現象はまた、「人々の異なるアイデンティティが生み出す経済行動」の問題でもあるのではないか、と思うようになった。ここでいう「アイデンティティ」という用語は、言うまでもなく情報の経済学の創始者であるジョージ・アカロフとレイチェル・クライトンとの共著、『アイデンティティ経済学*1を念頭に置いた上で用いている。

 さて、アカロフクライトンの一連の仕事の主眼は、さまざまな経済現象を「アイデンティティ」という要素を考慮に入れることで、より一貫して簡潔な説明を行うことに置かれている。しかし、このような姿勢については日本語版の訳者解説で山形浩生氏も懸念を示していたように、本来は情報の経済学やゲーム理論で説明できるところを、むしろアイデンティティという別の要素を入れて複雑化しているだけなのではないか?という批判が投げかけられるかもしれない。しかし、もともと「情報の経済学」の先駆者であるアカロフらがこのような立場にたどり着いたのにはやはりそれなりの必然性があるのだ、というのが僕の考えである。そのことを、東北の生産者が直面する風評被害のの事例について考えてみよう。

 まず、食物の放射性汚染に関して問題なのは本当に「情報の非対称性」なのか、ということについて、もう一度検討の余地があるだろう。というのも、現在問題とされているのは、「食品そのものの汚染」に関する不確実性だけではなく、「人体への被害」に対する不確実も含まれているからである。だからたとえ検査によって基準値に関する「情報の非対称」が解消されたとしても、そこには必ず不確実な部分が残る。この点について、芹沢一也氏はメールマガジン「αシノドス」Vol.84に掲載された前掲関谷著『風評被害』への書評において、次のような的確な記述を行っている。

風評被害とその補償というスキームにあって、これまでは、いたるところで放射線が検知される現在のような状況は想定されていなかった。だから行政やメディアは放射性物質の汚染はない、あるいは無視できる程度だとアナウンスすればよかったし、それでも生ずる風評被害の補償を行えばことは済んだ。だがいまは、前提として何がしかの汚染が「ある」。つまり、現在は風評被害モード2ともいうべき状況にあるのだ。

いうまでもなく、現在問題となっているのは「基準値以上/以下」である。そして、たとえ基準値以下であっても、検出したという事実の公表自体が風評被害をもたらす。ただでさえそうであるのに、専門家のあいだでも基準値のあり方をめぐって議論が割れており、当然、国民のあいだで合意も成立していない。こうした状況のなかでわたしたちは、風評被害という難題を解決していかねばならないのだ。

 そして、このような深刻な不確実性に直面したとき、目の前に開示された情報をどう受け止めるかは、決して各個人によって同一ではなく、それぞれのいわば内的な規範によって異なってくるはずである。そしてこの各個人の内的な規範に決定的な影響を与える要素が、アカロフクライトンのいう「アイデンティティ」なのではないだろうか。

 例えば、同じ程度の放射線物質に汚染された食物であっても、「何があっても子どもの健康を守らなければ母親」というアイデンティティを持っているのか、「東北の生産者を支援しなければならない市民」あるいは「正しい知識を啓蒙する使命にかられた科学者」、さらには「国家権力の言うことはまず疑ってかかるアクティヴィスト」というアイデンティティを持っているのかによって、その食物に対してどのような態度を取るのか、ということは異なってくるはずだ。むしろ、そのアイデンティティの違いによる情報の受け止め方の温度差や揺れの度合いこそが全体としての消費者行動に影響を与えている、というのが現在の状況ではないだろうか。アイデンティティが不確実性の深刻な状況において人々の行動に大きな影響を与えるのは、アイデンティティが不確実性の「縮減」をもたらすこと、そしてそれが一旦形成されると自己実現的に強化されていく性質を持つことから説明できるだろう。後者については個人の中で一旦「○○は信用できない」「××は危険だ」という規範ができあがると、自然とそれを強化するような情報を選んで接するようになるためその規範がさらに強化される、というネット社会によく見られる現象をあげておけば十分だろう。

 さて、このようなアイデンティティの問題について論じた著名な経済学者による最近の著作として、アマルティア・センの『アイデンティティと暴力: 運命は幻想である』があげられるだろう。
 この「アイデンティティと暴力」というタイトルは象徴的である。アイデンティティは不確実な状況の下で行動の指針を与えるものだが、人々がある種のアイデンティティ固執することは往々にして差別や暴力を生むからである。これは、人々の行動に影響を与えるアイデンティティが往々にして他者の排除によって、いわば自己実現的により強固なものになっていく傾向があるからだ。共存できるはずの異なるアイデンティティが悲惨な対立にまで発展した例として、センはルワンダの民族対立例を挙げている。そこまで深刻な対立ではなくても、中国に対する「何となく嫌な感じ」が中国産とラベルの貼られた(必ずしも中国産そのものではない)食品を買い控えるという行動を自己実現的に支えていく、という現象は、私たちにとって記憶に新しいはずだ。
 
 いわゆる放射能汚染に関する風評被害の問題について、徹底した情報の開示が行われることが重要であることは言うまでもない。しかし、これまでの考察からすれば、それと同時に、むしろアカロフクライトンやセンが説くような人々のアイデンティティや内的規範を重視するアプローチからこの問題を考えていく必要があるのではないだろうか。3.11後の原発事故によって、日本の社会ではそれまでならば意識されなかったようなアイデンティティの対立が生じているように思えてならないのだが、そのことが他者の排除=暴力という最悪の結果をもたらさないようにするために、彼(女)らの議論はとても重要なヒントを与えてくれているように思うからである。

*1:この本については田中秀臣氏のブログに詳しい解説http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20110830#p8http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20110901があるので参照のこと。