梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

現代中国論と「専門知」と「世間知」のギャップについて

 数日前ウチダ先生のエントリを批判すると予告したら、狙い通り(?)その後アクセス数が増えている件について。このまましばらく引っ張っておこうかとも考えたが、そろそろ効果も薄れたようなので。

さて、問題のエントリである。http://blog.tatsuru.com/archives/001488.php

 ちょっとどこからツッコんでいいのかわからないのだが、とりあえず順番に行こう。まず、「文革の時に専門家の多くは誤った見通しを語ったし、またそれが誤りだったことが明らかになった後でも決して反省しなかった」という点について。
 これについては、1967年に中国に批判的な記事を書いたとして国外退去になった産経新聞の柴田穂記者の例があるし、中嶋嶺雄衛藤瀋吉、石川忠雄といった非左翼系の研究者もかなり早い時期からリアルな見方をしていたはずである。また、文革を礼賛した人たちがその後「反省しなかった」かどうかについても、大学教授をやめてしまった新島淳良とか探せばいくらでも反証例は出てくると思うのだが、たぶんウチダ先生の言いたいことはそういうことではなくて、「多くの人が誤った見通しを語ったし、そのまた多くがあまり反省しなかった」ということが問題なのだろう。
 確かに、文革時だけではなく、例えば戦前においても、陸軍のいわゆる「支那通」が中国の状況に対する判断を誤り、泥沼の戦争へと突入していったという例もある(たとえば戸部良一日本陸軍と中国』講談社選書メチエISBN:4062581736)。だから、「中国情勢については専門家であっても判断を誤りうることがしばしばある」という点については、まあその通りだと言うしかない。

 しかし、その「誤りうる」ことの理由として挙げられている、「専門家が圧倒的な知識を用いて客観的な判断を行っているつもりでも、そこには必ず主観的な思い込みによるバイアスがかかっているから」という点はどうだろうか。文革期、あるいは戦前期において、中国に対する情報は現在と比べて圧倒的に不足していた。特に文革の前後は日本人は自由に中国に行くこともできず、経済統計の類もある時期から全く公表されなくなった。客観的な判断を行うための情報が不足していた以上、主観的な思い込みによって判断に大きくバイアスがかかるのは当然である。それは、十分な情報のもとで「客観的な判断をしているつもりでも知らず知らずのうちに主観的なバイアスがかかってしまう」のとは明確に異なる問題ではないだろうか。

 そして、中国に関する情報があふれているはずの現代の中国問題の専門家について、ウチダ先生はどのような記述をしているだろうか。

先日送ってもらったある総合誌を読んでいたら、何人かの論客が中国を論じていた。
彼らはほとんど例外なしに、中国の中央政府のガバナンスが機能せず、経済が破綻し、環境が劣化し、人民解放軍の暴走が始まる近未来を「予測」していた。
その予測はかなりの程度まで信じてよいことなのかも知れない。
しかし、彼らのその文章には「そのような事態」が到来することへの彼らの「期待」(ほとんど「願望」)が伏流していることに彼らが無自覚であることに私はつよい不安を抱いた。
アジアにおける中国の失墜が相対的にわが国の「国威発揚」に結びつくと彼らは信じているのであろう。

 うーむ。

 「中国の中央政府のガバナンスが機能せず、経済が破綻し、環境が劣化し、人民解放軍の暴走が始まる近未来を「予測」し」、「「そのような事態」が到来することへの彼らの「期待」(ほとんど「願望」)が伏流している」中国専門家というのは、一体どこに存在しているのであろうか。

 少なくとも私の周辺の中国研究者にはそういう「期待」を口に出したり文章に書いたりしている人物は一人もいない。とはいえ、対して顔の広くない私の周囲だけを問題にするのではサンプルとして不十分かもしれない。そこで、中国研究関連の論文が掲載されている代表的な学術誌のここ数年の動向をみてみることにしよう。

『アジア研究』http://www.jaas.or.jp/pages/publications/asia-studies.htm
『アジア経済』http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Ajia/index.html
『現代中国』http://wwwsoc.nii.ac.jp/jamcs/
『中国研究月報』http://wwwsoc.nii.ac.jp/ica/geppou.htm

 論文のタイトルだけ眺めれば十分だと思うが、上記のようないかにもの「中国崩壊論」に近い内容のことが書いてありそうな論文というものは、おそらく一本も存在しないはずである(あったら教えてください)。 
 また現在私の手元には、何冊か「専門家」によって書かれた、現代中国政治に関する専門書があるが、それらの本のページを繰ってみても、上記のような現状判断や将来予測はどこにも見出すことは出来ない。
 つまりウチダ先生が危惧されているような、中国の将来に関する予測(あるいは期待)は、学術的なバックボーンがある「専門家」ならまず(少なくとも「学術的な」媒体では)書きはしないような文章なのである。

 では、そのような予測・あるいは期待を積極的に表明している「専門家」とは一体誰なのだろうか。それはおそらく、アカデミックな研究者、あるいは現場で地道な取材をしているジャーナリストたちによる仕事を適当に組み合わせて、自分達のかねてからの政治的な主張の正しさを世間に訴えることを目的に言論活動を行っている、「専門家」というよりも「オピニオン・メーカー」といったほうがよい一群の人々のことではないだろうか。ただその一部は確かに研究者やジャーナリストといった「専門家」を兼ねているけれど。
 彼ら/彼女らは最初から自分たちの「主張」を広めることを目的としているので、「主観」が前面に出ているのは当たり前である。そして自分達もそのことに十分自覚的であろう。だから彼ら/彼女らに対して「自分では客観的な分析をしているつもりでもその主観的なバイアスに気がついていない」という批判を行うのは、たぶん的外れである。

 さて、上述のような書き方から、私がアカデミックな研究者(専門家)の分析は客観的で全幅の信頼を寄せてよいが、「オピニオン・メーカー」の言っていることはいい加減で無視してもよい、と考えているように思われるかもしれないが、それは正しくない。アカデミシャンにはアカデミシャンの問題が存在する。というのも、確かにアカデミシャンの分析は部分的には「客観的正しさ」をもっているかもしれないが、だからといってそれは必ずしも「主観的な正しさ」を提供してくれるとは限らないからである。

 「主観的な正しさ」を提供しない、とはどういうことか。まず、中国研究の領域も細分化が進んでおり、ある限られた領域では客観的な知識が得られていても、それらを総合して全体的な評価を行おうとするとうまくいかない、あるいはあえてそのような「全体」を語ろうとする人がなかなかいない、ということがある。そして、このために中国とどう付き合うか、あるいは中国に関係するさまざまな問題についてどう考えればいいのかという点について、個々の客観的な分析を踏まえた全体的な価値判断が、なかなか一般の人々に納得できる形で提供されない、という結果が生じる。

 そしてここに、中国問題に関する「オピニオン・メイカー」達が活躍する余地が出てくる。彼ら/彼女らは、アカデミックな研究者がなかなか提供できない全体的かつ主観的な価値判断を、一般の人々の心に届く形で提供してくれるからである。いわば、個別の現象の分析に関する「専門知」と、全体的な価値判断という「世間知」との間の断絶という、恐らく他の社会科学にも見られるであろう問題が現代中国論の領域にも存在しているのだ。

 現代の中国問題に関する「専門家」をめぐる問題の本当の難しさも、恐らくこの辺にある。例えば、微力ながら自分でもブログに文章を書いたり、いろいろな中国関係のサイトをチェックするようになって、最近感じるのは、中国に関して「専門知」的な、すなわちできるだけ価値判断を排した客観的な分析「だけ」を語ろうとする姿勢自体が、一種の「偏向」として批判の対象になるという現象がみられるようになってきた、ということだ。つまり、中国について語るとき、現状を客観的に分析しただけではダメで、そこで明確に日本の見方をするという立場を表明しなければどこかから野次が飛ぶ、そういう光景をそこここで見かけるようになった。これは、少し前まで考えられなかったことだ。個人的には、こういった風潮が広がっていくことには大きな危惧を感じている。たとえ中国に関する情報が十分に存在しており、したがって専門家による客観的な分析が可能であっても、それが人々に受け入れられず。有効に生かされないのであれば、それこそ状況は文革時代と変わらないものになってしまうだろうからだ。

 さて、このように考えてきた時、現代中国を語る際のウチダ的処方箋、「客観性の罠にはまることなく、自分の判断の主観的バイアスに気付くことのみが大事なのだ」という考えのどこが問題なのか、もう明らかだろう。こういったアイロニカルな論法は、確かに中国に関して現在世間に流布しているある種の価値判断を相対化するには、役に立つかもしれない。しかし、それは、より本質的な課題であるところの、「専門知」=客観的な分析と「世間知」=全体的な価値判断のギャップを埋めること、すなわち具体的な専門知を踏まえたうえで(あるいはそれに加え社会哲学的な知見も必要になるかもしれない)より多くの人が納得できる価値判断、あるいはそれを議論するための土台を提供するということに関してはほとんど役に立たないからである。むしろ、客観的な「専門知」の重要性を疑い、その相対化を徹底して説いているという点では、ウチダ先生が攻撃してやまない中国問題についての「オピニオン・メイカー」よりもあるいはタチが悪いかもしれないのだ。 
 果たして先生は、そのことを自覚した上でその「専門家批判」を展開しておられるのだろうか。