梶ピエールのブログ

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吉本佳生『金融広告を読め』光文社新書ISBN:4334033067

 この本ははてなや有名な経済学関係ブログではあまり話題になっていないようだが、かなりの好著ではないだろうか。この著者はこれまでにも、『金融工学の悪魔』(小島寛之さんの『サイバー経済学』でも紹介されていた本だ)というオーソドックスなミクロ経済学によって「金融工学」というなにやら目新しくて奥の深そうな「ガクモン」のウサン臭さを暴き立てる類書を発表しているが、この本では特に、外資系銀行を中心に最近新聞などでも目立つようになってきたさまざまな金融商品に関する派手な広告を焦点を当て、その徹底的な批判を行っている。


 例えば、最近新聞広告でも目立つようになった「5年もの金利1%」とでかでかと書いてあり、横に小さく「5年間の期限延長特約付き」と書いている類の預金の広告。一見、低金利時代に預金者のニーズにこたえた商品を提供する良心的な商売のように思える。だが、僕はうっかりこの種の商品を売り出している銀行に口座を作ってしまったから覚えているのだが、この銀行が当初同じ名前の預金を売り出した時は、確か「特約」のない単なる5年もの1%の定期預金だったのだ。それが「好評につき」販売が開始されたときには3年間の「期限延長特約」がついており、それがいつのまにか5年に伸びてしまった。だがこの3年とか5年とかの「期限延長特約」とは一体何なのか?これが実はとんでもない食わせ物で、結果としてこの金融商品は実にリスクが高く、そのわりにはリターンがあまりに少ない商品になっているのだ。そのからくりについてはじっくり本文を読んでいただくとして、問題は、何でこんな悪質な広告がまかり通るのか、ということだ。

 この本は、誰もが目にした事のあるこういう胡散臭い金融広告のサンプルがイラストを使って示されていて、強烈な視覚イメージとして残るように工夫してある。それも確かに特徴の一つだが、この本が本当に優れているのは、「なぜ金融機関のうちだす広告が必然的に胡散臭いものにならざるを得ないか」という理由を、経済学を使って理論的にはっきりと示している点にあると思う。

 吉本さんはまず、金融業における広告が、製造業における広告とはその性質において全く違うものであることを指摘する。つまり、製造業であれば、基本的に固定コストを製品の個数で割ったものにマージンを載せて価格付けがされているので、製品が売れさえすれば生産を拡大すればするほど利潤は拡大する(ワルラス的な価格メカニズムとは異なる点に注意)。利潤を制限するのは、むしろ需要の方だ。だから、多少お金をかけても大々的な広告を打って需要を拡大することは理にかなっているだけでなく、むしろ製品あたりの固定コストを引き下げ単価を安くする、すなわち商品をよりお買い得にする効果もある。 しかし、金融商品は、基本的に販売規模が拡大したからといってその収益率が上昇するわけではない。つまり、広告を打つと商品販売額当たりのコストは広告費が上乗せされる分だけむしろ高くなってしまう。それでも派手な広告を打つとすれば、コストの上昇を補って余りあるほど金融機関にとってうまみがある、つまり利幅が大きい(=顧客にとって割高な)商品を売り込むため以外には考えられない。家電などで大々的に広告を打っている製品はむしろお買い得であることが多いが、金融商品では逆に派手な広告費をかけているものほど「お買い損」であるものが多いというわけだ。

 もう一つのポイントは、金融機関が広告を使って「差別化戦略」を行っている、という指摘だ。金融商品についての派手な広告は、ちょっと金融商品についての知識がある人なら「ケッ、そんなうまい話あるかよ」と鼻で笑うようなものである場合が多い。だが、世の中にはそういう顧客ばかりではない。きちんとしたリスク計算ができず、目先のうまい話に乗ってくる「カモ」の客は必ず存在する。そういう「愚かな」カモを引っ掛けるには、実は広告はできるだけ「胡散臭い」ものであるほうがいい。カモではない客までだましてしまい、後で愛想をつかされたり文句を言われたりするのを防ぐためだ。またそういう「賢い」顧客のためには、まともな金融サービスもきちんと用意し、目立たない形で紹介しておけばいい、というわけだ。
 この説明を読んで、中国なんかのニセモノ市場での、カモになりそうな外人客には法外な値段を吹っかけるというおなじみの商売のやり方を思い出してしまったのは僕だけだろうか。

 今、2ちゃんねるで話題沸騰のスレッド「経済学がこの世から消えたら… 」で読むことのできるSF巨編(?)に比べたら、遥かにスケールの小さな話だが、「もし悪い奴らが経済学を利用して、経済学を知らない善良な人々を本気でだまそうとしたら」という仮定にのっとって、やはり一つの興味深いストーリーが作れるかもしれない。しかし、本書は、それがSF的な仮定などではなくて現実のものとなりつつあるということを思い知らせてくれる。そしてそういった現実に対抗するには、本書でも指摘されているように、とりあえず一人でも多くの市民が「経済学という教養」を自分のものにしていくよりほかに道はなさそうである。