梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

反日=反グロ=無罪?

 というわけでしつこいですが、『現代思想』6月号の特集「<反日>と向き合う」について。まあ、いつまでも負け気分に浸っていないでやはりきちんと批判すべきところは批判しておかなくちゃ、という結論に達したわけです。

 全部の論考に目を通したわけではないのだが、少なくとも中国関連のものに関する感想を言うなら、日本の現政権を批判するのはいいのだけど、しかしそのために中国という鏡を利用する、というかつての竹内好の手法に依存し続けてどうするの、ということに尽きる。文革期の痛切な反省から、とにかくリアルな現状把握からはじめなきゃ、というコンセンサスがイデオロギーを超えて中国研究の世界では形成されていたはずなのだが、それをここに書いている人たちはどう考えているのだろうか。


 ただ、丸川哲史氏の論考だけはちょっと面白かった。相変わらずその主張には全然賛成できないのだけど、この人の提供するネタには思わずいつも食いつかされしまう。今回の論考では、1970年代の台湾における「保衛釣魚台運動」をとりあげ、その(中華民国ナショナリズムの高揚に名を借りた体制批判運動という、いわば台湾版「民主と愛国」ともいうべき側面に注目し、そこに大陸中国における1919年と現在の反日を重ね合わせようとしている。ただその重ねあわせにはあまりにも無理があるというのが正直な感想だけど、この時期の台湾の政治状況の複雑さは、現在の東アジア情勢の複雑さを理解するうえでの重要性にもかかわらずあまりにもスルーされてきた、という指摘はその通りだと思う。

 しかしその丸川氏にしても、こりゃ全然ダメだと言うしかないのが、そのグローバリズム認識である。全球(グローバル)化の波の中で農民と労働者がその恩恵から取り残される中国・・そこまではいいとして、そのグローバリズムのイメージはというと、多国籍企業が低賃金で途上国の労働者を搾取して・・という古典的なイメージを一歩も出ていないようだ。

中国を「世界の工場」と呼び習わす今日、かつて文化大革命の最中に毛沢東が述べた「世界の階級闘争を中国が担保し下支えしている」との言葉は、この「階級闘争」をグローバリゼーション」に入れ替えれば、そのまま世界の現状を表示することになろう。実に「反グロ」の思考は、反日デモという愛国主義の発揚と領土保全への欲望に彩られたフレームワークの端々に散見され得るものとなっているのである。

 このような文脈からは、中国各地で行われた日貨ボイコットや日系スーパーへのデモは「反グロ無罪!」として評価できる、ということになるだろうか。これは丸川さんだけではなく例えば「90年代以降の反日教育アメリカ型のグローバリズムに対抗する世界戦略だ」という珍説を披露している某氏にも言えることだが、そういった反グローバリズムに立つ人たちが、現在の中国で急速に進行しているグローバリズムの光と影の側面、すなわち「敵」の実態について、あまりに単純で貧弱なイメージしか抱いていないのはやはり問題だと思う。


 確かに、僕の知っている限りでも中国におけるグローバリズムの進行は明るい面だけではなく、それによってかえって悲惨な状態になったと思われる層は存在する。だが、それは「多国籍企業に搾取される農村からの出稼ぎ少女」といったものではない。それをとりあえず実感する上で役に立つのが、過去のエントリid:kaikaji:20050516でも少し触れたNHKスペシャルの『麦客』という番組だ。

 番組の中では、三つの層の農民が登場する。(働き手が出稼ぎに行っているため?)麦刈りになると人手が足りなくなり、他地域からの季節労働者流入に依存してきた河南省の農民、山間のやせた土地しかないため農業では豊かにならず、鎌一本で麦刈りの季節労働に出かけることでなんとか糊口をしのいできた「老麦客」と呼ばれる寧夏回族自治区の農民、そして沿海部である河北省からコンバインを駆って麦刈りの季節労働市場に参入してきた、「鉄麦客」と呼ばれる豊かな農民である。所得水準は
 鉄麦客>河南省農民>老麦客、の順に高い。

 コンバインという生産手段を持った「鉄麦客」の参入により、土地あたりの収穫コストは大幅に低下する。しかし、老麦客は最低限の生活資金を稼がなければならず、その賃金は下方硬直性を持つ。当然、河南省の農家はコンバインで刈り入れができるところであればもはや老麦客に仕事を頼んだりはしない。ということは老麦客の多くは仕事を失い、あったとしてもコンバインが入れない山あいの畑に追いやられていく。番組は、その過酷な現実を「老麦客」たちに温かい目を注ぎながらも容赦なく描いていた。
 ここで重要なのは、改革開放に始まるグローバリズムの進行の中で、「麦刈りの季節労働」という手段によってわずかに外部経済とのつながりを持ち、緩慢ではあるかもしれないが生活水準を向上させてきた貧しい農村が、皮肉なことにそのグローバリズムの更なる進行(=沿海農民の富裕化)によって、その細いつながりさえも切断されようとしている、というところにある。
 稲葉振一郎さんが「地図と磁石」http://hotwired.goo.ne.jp/altbiz/inaba/031202/の中で、「しかしいったん(グローバリズムに)取り込まれてしまえば、もとの孤立した自立・自律に戻ることは、大きなコストを払うことなくしてはできない」という指摘を行っているが、「麦客」をめぐる状況がその典型的な例だということは容易に理解できよう。

 現在の中国社会でグローバリズムの犠牲者というものがありうるとしたら、それはとりもなおさず「老麦客」のような「外部経済とのつながりから切り離されようとしている人々」である。それに比べれば、例えば古典的な「搾取」のイメージに合致する、外資系企業で朝から晩まで働く出稼ぎ少女達は、世界経済の連鎖の真っ只中に位置するという点で、むしろグローバル化の「受益者」としか言いようがない存在なのだ。そして「受益者」は彼女らだけではない。「老麦客」の出身地ほど条件の悪くない多くの農村は、程度のこそあれ外部経済とのつながりを維持することで少しづつ豊かになり、ここ10年の間に中国農村の(絶対的な)貧困をめぐる状況はかなり改善してきたのもまた事実なのだ。

 もう一つ指摘しておきたいのは、グローバリズムの進行という状況においても、「麦客」の例に典型的なように、外資系企業ではなく、むしろ農民がより貧しい農民を搾取する、という構図がみられることである。また、優遇を受けている一方で厳しい規制の対象である外資系企業に比べて、「同胞」である台湾・香港系企業やローカル系の民営企業の方がはるかに厳しい労働条件を出稼ぎ労働者に強いているというのはいまや常識である。こういう状況で日本企業に代表される外資企業のみをグローバリズムの象徴として攻撃する、あるいはその運動にエールを送ることが、果たして本当に「労働者や農民の立場に立つこと」といえるだろうか。

 ・・というわけで、上記のようなグローバル化の犠牲者を本気で救おうとするならば、、取り組まれるべき課題は、そういった取り残されそうな地域をいかに無理なくより豊かな地域に統合していくか、言い換えればいかに対症療法によってその副作用を最小限に抑えつつ、グローバル化を徹底させていくのか、ということ以外ではありえない。その中で日本人としてどのようなかかわりができるのか、また反日の問題をどう考えていけばいいのか、ということはもちろん大変難しい問題であり、簡単に答えを出せる問題ではない。ただ確実にいえることは、自らのイデオロギー的立場から反日運動に反グローバリズムの思想を勝手に読みこみ、それとの連帯を夢想する、などというのは、単にナイーブであるだけでなく、何よりも当の中国社会にとって迷惑以外の何者でもないだろう、ということである。