以前にも書いたように、NHKの番組改ざんおよびそこで問題になっていた民衆法廷(女性国際戦犯法廷。以下「民衆法廷」で統一)の問題は、当初なんとなく気乗りがしなかったのだが、id:mojimojiブログでの議論を受けたhttp://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/おおやさんの整理によってかなり(NHKの問題ではなく、民衆法廷そのものに関する)問題がクリアになり、思わず身を乗り出して議論を追いかけてしまった。個人的には圧倒的におおやさんの議論に説得力があると思うというか、彼が専門家としていらだっているところのものがmojimoji氏にはうまく伝わっておらず、特に二人の最新のエントリ(ともに1月23日付のもの)を見た限りではかなりすれ違いの様相が強い、というのが正直な印象だ。
というわけで、以下では必ずしもお二人の議論(特にmojimoji氏の論点)をきちんとフォローするということはせず、おおやさんがいらだっている点に関して僕なりの観点から解釈を加え、なぜ個人的に彼の立場に共感するか、ということを少し述べてみたい。もちろん、とんでもない誤解をしているかもしれないしかえって議論を混乱させて顰蹙を買うかもしれないが、その時は単に叱責するか無視してもらうということで。
さて僕が「民衆法廷」に感じる疑問点は二つある。一つは運動の戦略に関するものである。主催者側にもいろいろな言い分があることはわかった(その言い分に対する批判はとりあえずおいておく)。しかし、もともとその開催の少なくとも大きな目的の一つが「パフォーマンス(従軍慰安婦問題についての関心を広く呼びかける)」であるのなら、いくら言い分があっても、それが自分達の狭い間でしか共有されず、広く人々の共感を得られないものであっては元も子もない、と思うのだ。要するに「法廷といいながら弁護士もつけてないんだって、笑っちゃうよね」という印象を広く一般の市民に与えるとしたら、やはりその時点で運動としては失敗ではないか、ということだ。
もう一つは、すでにおおやさんが詳細に語っているが、どうも民衆法廷の主催者の側には、現行の法体系の外部に独立した「正義」の存在を仮定し、なおかつそれを現行の法体系の上位におく、という思想があるように思われる点だ。そのことがなぜやばいか、理論的な話はおおやさんに任せて、とりあえずここではこの件についてフォローする中で連想したある現実の裁判の例を挙げておきたい。
6年ほど前、「東史郎裁判」なるものをめぐって日中の知識人の間でちょっとした論争が起こった。詳細は下記のサイトを参照してもらいたい
http://www.jca.apc.org/nmnankin/azuma.html
が、かんたんに裁判の経緯を説明しておくと、旧日本兵として南京に従事した東氏が、南京で目の当たりにした残虐行為を書き残していた記録を後年『わが南京プラトーン』という回想録の形で公表したところ、その本における東氏のかつての上官が行ったとされる残虐行為にかかわる描写が虚偽であり、「名誉毀損」にあたるとして、件の上官が訴えを起こし、その結果東氏が敗訴した、というものだ。
だが話はそれで終わらなかった。東氏(およびその支援者)は自らが受けた判決の不当性を中国で訴えるという行動に出、中国の各マスコミをそのような東氏のことを大々的に取り上げた。その結果、またたくまに東氏は「南京大虐殺の存在を否定するため裁判に圧力をかけた日本政府」と戦う正義の人、として中国の一般市民の中で英雄扱いされるにいたったのである。
そのような動きに対して、「裁判はあくまでも名誉毀損にあたるとされる事実関係について争ったものであり、南京大虐殺の存在自体を否定したものではないし、戦争犯罪を隠蔽しようとする日本政府の意図が判決に影響したというのは事実ではない」という批判が中国研究者の間からも起こった(水谷尚子「私はなぜ東史郎氏に異議を唱えるか−日中間に横たわる歴史認識の溝」『世界』『世界』1999年8月号)。
それに対し、中国の著名なポストモダン派の知識人である孫歌が反論を行い、それに溝口雄三や故・古厩忠夫といった学界の重鎮も加わることによって、中国に関心のある人間の間ではかなり耳目を集めた論争に発展していった。そこで中心的なテーマとなったのはむしろ「感情の記憶と歴史研究」をめぐる問題だったのだが、ここではとりあえずそれはおいておこう(この点に関してはとりあえず孫歌『アジアを語ることのジレンマ』岩波書店を参照のこと)。
問題にしたいのは、そこで孫歌がおよそ次のような議論をしていたことだ。
つまり、きちんとした法手続きにのっとった裁判なのだから、戦争犯罪を隠蔽しようとするような政治的意図とは無関係だ、という議論の背景には、「中国人は三権分立のシステムが理解できていない」という、「法治国家であり先進国である」日本の「法制度の整備が遅れた発展途上国」中国に対する無意識のうちな優越感が存在する、と。
これを「法」と「正義」という言葉を使っていいかえると、こういうことになるだろうか。「あなた方日本を含む「西側」の知識人はいつも中国を法治・民主・自由の実現していない遅れた国だと馬鹿にするが、あなた達の実現している法治・民主はそれほどご立派なものなのか。現実には、あなた方の国でも(東裁判のように)「法」的には正しいけれども「(普遍的)正義」が実現されていない判決がいくらも出されているではないか」。
孫歌の議論には他にも突っ込みどころがありまくりなのだが、それはとりあえずおいておこう。また、「東史郎裁判」の判決の妥当性も今は問わない。さて、なぜこの裁判の話をここで持ち出したのか。民衆法廷の主催者の立場と「東史郎裁判」についての孫歌の立場には、前者が「法的な手続きにのっとっていない(非正統的な」パフォーマンスを弁護し、後者が「法的な手続きにのっとっている」はずの判決を批判する、という違いはあるものの、「法」の外部にある「正義」の基準に照らして現行の(日本の)法体系を批判している、という姿勢では共通しているように思われるのだ。これはなにもこの両者に限ったことではなく、ポストコロニアリズムの立場から現行の(先進国の)民主・法治・自由の欺瞞性を批判する議論は、どうしてもこういったより高次の「正義」の存在をナイーブに仮定する姿勢から免れていないのではないか、という気がする。
以上の点ははおおやさんの展開している「形式と正義」に関する議論とつながってくるだろう。おおやさんの「正義」を「法」に優先させてはいけない」という議論を僕なりに勝手に、かつ極めて単純化して解釈すると、「法」の外部にある「正義」が優先する立場をみとめると、その「正義」が恣意的に運用される可能性があり、なおかつそれに対する現実的な歯止めが利かなくなる、という感じだろうか。
この点から、孫歌のような中国の知識人が、独自の「正義」の基準から「(日本)の現行の法体系」の不備を強調する時、その「危うさ」は明らかだろう。確かに、日本の現状の裁判制度において不当判決を含めおかしいことはいっぱいあるかもしれない。しかし、少なくとも日本の現在の法システムがそれなりの長い時間とプロセスをかけて不完全かもしれないが法律の運用に関する公権力の恣意的な介入を排除する仕組みを作り上げてきたわけで、その点で中国より「進んで」いるのは明らかである。そこのところを孫歌のような議論をしてしまうと、本人達がいかに否定しようとも、そういった日中間の法システムの「落差」によって、具体的には中国の国家権力による法システムへの恣意的な介入によって現実に生じている様々な人権侵害の問題を軽視することにつながりかねないと思う。 そして念のために付け加えておくが、法システムの整備に関する日中間の「落差」を認めることは、日本人が中国人に対して一般的な優越感を持つこととは何の関係もない。
もちろん、以上は中国の(しかも一部の)知識人の話であって、問題の民衆法廷の主催者たちが、上記のような「危うさ」に対して全く無感覚などとは言わない。しかし、ブログでの議論や情報をフォローしたかぎりでは、かといってこの問題に関してそれほど明確に考えているともまた思えないのだ。それより問題なのは、そしておそらくおおやさんが民衆法廷の手続き的な「恣意性」にあれほど苛立ちを示しているのは、いったんそのようなものを「手続きはやや恣意的だが普遍的正義を体現しているからよい」という形で認めてしまうと、例えば上記の中国の知識人の議論のような「法」とは独立する「正義」の基準によって自国の法整備の(先進国に対する)遅れを相対化してしまうような、いわば「正義の濫用」ともいうべき議論を批判できなくなってしまうからではないだろうか。
この点に関しては、おおやさんはアジア諸国における法整備に関するプロジェクトにもかかわっておられるようなので、ぜひいつかご意見をお聞きしてみたい。
以上書いたようなことは、単にためにする批判ではなく、特に「アジアにおける「普遍的正義」の実現」という非常に困難な問題に取り組むにあたっては、上記のような問題についてもう少し敏感かつ慎重であってほしい、というあくまでも建設的な提言として受け取って欲しいのだが。少なくとも僕は中国の「新左派」知識人にはまったく共感を抱いていないけれども、女性国際戦犯法廷の主催者には、その発想の出発点では共感できる点も少なくないのだから。