梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

続けて木村さんの本について

彼の基本的な主張は、とりあえずイデオロギーを離れて客観的なデータなどを中心に「普通に」朝鮮半島を眺めてみよう、と言うものである。その主張には基本的に賛成できるし、実際木村さんの専門的な業績に裏付けられた「半島の国々、特に韓国は、人口・経済力・軍事力から言ってもちっとも「小国」じゃないのに自己意識としても、および日本を始めとした他者からも「小国」意識を持ち続けている」「韓国人の民族意識は他の国に比べて特に強烈なわけではないのに、日本では民族意識がやたらと強烈だと思われている」などといった指摘からは得られるところが大きかった。

 しかし、そういった主張を木村さんは一体誰に向けているんだろう、という点になると少し考え込んでしまう。とりあえず朝鮮半島にこだわりを持っていろいろと本などを読んでしまう、いわば木村さんの研究室を訪ねてくるようなごく少数の人々に向けて、ということならばれば、別に異論はない。ただ、この本は新書なので、あくまでもう少し広い一般層に向けて書かれているはずだ。しかしそういった「一般層」に果たして木村さんのメッセージは届くだろうか。

 まず、そういう「一般層」にも二種類の人々がいることに注意したい。まず木村さんが批判の対象としている「朝鮮半島は(日本にとって)特殊な存在だ」という意識にどっぷりと染まっている人々について。むしろ彼らは「朝鮮半島は特殊な存在だ」と「思い込みたい」人々ではないだろうか。そういう人々に木村さんの学者っぽい提言が簡単に聞き入れられるだろうか。そもそも木村さんの立場は、現在入手可能なデータからとりあえず暫定的な仮説を導き出して、後でいつでも集積できると言う心構えを持つこと、という社会科学のオーソドックスな方法論にのっとっている。これが木村さんが朝鮮半島に関する情報を判断する前に前提としている「メタ判断」なのだが、上述の「思い込みたい人々」にとってこれはかなり受け入れにくい前提なのでではないだろうか。

 さらに重要なことだが、そのような「朝鮮半島は特殊な存在だ」という意識にどっぷりと染まっている人々でさえ、特に若い世代では実は少数派なのではないだろうか。言い換えれば、木村さんが想定しているような、「朝鮮」と聞くと身構える、「普通の国」として捉えられない、というような「普通の日本人像」というのが、実際に果たしてどのくらい「普通」なのか非常に疑わしい、ということだ。
 例えば僕の勤め先の大学の学生は、というとたぶん北朝鮮については確かにわけのわからない、特殊な国だと思っているだろうが、韓国について上述のような「構え」のようなものがあるかどうかはよくわからない。むしろ、そういった特別なこだわりのようなものは何もないし、実際韓国のことについては何も知らないし、知ろうとも思っていない、と言うのが僕の印象である。

 例えば、「ゴーマニズム宣言」を読んでいる、と言うだけで偏差値50以下の大学では相当のインテリであり少数派なのだ。同じ意味で、2ちゃんねる中国板やハングル板に見られるナショナリズム的心情が現在の若者のマジョリティを表していると思ったら大間違いである。明らかに彼らのマジョリティはナショナリズムの前段階、にある。宮台真司だったか、「現在の日本でナショナリズムなんてありえない」と語っていたが、その指摘はおそらく正しい。そういう意味で、こういうシニカルな物言いはあまりしたくないが、木村さんのような偏差値の高い大学に勤めている人にはそういった現実はやっぱり見えにくいのかな、と思ってしまう。