梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

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 日本のオピニオンを英語で海外に紹介するサイトDiscuss Japanに、 "Macroeconomic Policies in Japan and China amid Prolonged Stagnation"と題したエッセイを寄稿しました。

www.japanpolicyforum.jp

 以下は、記事の元になった日本語の文章です。

 米国で刊行後、インターネットを通じて日本でも大きな話題を呼んでいる専門書がある。マサチューセッツ工科大学教授で著名なマクロ経済学者、オリビエ・ブランシャールが著したFiscal Policy Under Low Interest Ratesがそれだ。
 この書物は、そのタイトルが示すように、金利、それも国債の利回りなどの「安全利子率」が非常に低い水準で推移し、時には成長率、さらには実質利子率の実効下限effective lower bound, ELB) を下回るような経済―長期停滞に陥った経済―においては、政府は公債の発行を増加させ、積極的な財政政策を行うことで需要を下支えするべきだ、と主張したのだ。
 ブランシャールの著作が日本で広く話題となった一つの理由は、黒田日銀総裁の下で行われた大胆な金融緩和に代表されるアベノミクスに肯定的な評価を与えているからだろう。この間、よく知られているように日本の公債比率は上昇し、総債務はGDPの250%以上に達しているが、ブランシャールによればこの赤字拡大は非常に弱い民間需要を補完するために必要なものであった。そして彼は、黒田総裁の下での持続的な金融緩和が、長期の安全金利を低く抑えることを通じ、財政の持続可能性を下支えしたことを高く評価したのである。

 さて、ブランシャールは、日本だけではなく他の多くの主要国も長期停滞を経験していることを指摘し、その著作の中でEUアメリカのマクロ経済政策についても論じている。一方で、中国をはじめとした新興国経済については特に言及していない。しかし筆者は、中国経済は日本経済とはまた異なった意味で、ブランシャールの議論がよくあてはまるケースだと考えている。というのも、2008年以降、中国では常に、成長率が貸出平均金利を上回ってきており、その意味ではブランシャールのいう「低金利=長期停滞下にある経済」として捉えることができるからである。もっとも、中国は日本に比べてはるかに高い成長率を持続してきたし、GDPの水準を上回るような公的債務の拡大が生じているわけでもない。しかしその代わりに、不動産価格の上昇が長期的に持続する、いわゆる「合理的バブル」が生じてきたのではないだろうか。

 このような合理的バブル発生のメカニズムを説明するにあたってよく用いられるのが、いわゆる世代重複モデルである。このモデルでは、人はみな若年期と老年期の二期間を生きると仮定する。すなわち、若年期に働いて収入を得たあと、その一部を消費し、老年期には若年期に蓄えておいた貯蓄を取り崩して生活する、と考えるのである。今、経済が長期停滞の状態にあり、資本の収益率が低く、したがって金利が経済成長率を下回っているケースを考えよう。このような場合、もし代替的な資産形成の手段がないとしたら、人びとは低い金利のもとで貯蓄を行い、老年期に低い消費水準に甘んじるしかない。
 しかし、フランス国立社会科学高等研究院のジャン・ティロール教授によれば、そのような場合でも経済成長に連動してその価値が上昇するような資産、典型的には不動産資産の購入と売却を世代間で繰り返すこと通じて、経済全体の資源配分の効率性を改善し、すべての世代の人々の消費水準を向上させることが可能である。このとき本来ファンダメンタルな価値を持たないはずの資産が、一定の価値を持ち、しかもその価値が時間の経過と共に拡大していくものとして取引される、すなわち「バブル」の発生を伴う。要するに、長期停滞経済と合理的バブルの発生とは表裏一体なのだ。

 またこのことは、中国においてマンション購入がしばしば「安心した老後を過ごすため」という動機から行われる、現在の中国における社会事情とも合致している。例えば都市に住む比較的裕福な家庭では、自分の息子が結婚して住むための二件目のマンションを購入するケースが多いが、その背景には老後の生活のサポートを息子夫婦に期待する、という強い動機が存在するといわれる。

 しかし、中国において長年続いてきた、成長率が金利を上回るという状況は、ゼロコロナ政策による成長率の低下により大きく変化している。2020年夏の引き締めを受けた不動産市場の冷え込みが長期化し、新規マンション建設工事の停止や、購入者によるローン支払い拒否などの問題が相次いで生じた。これは、このようなマクロ経済を取り巻く状況の変化により、「合理的バブル」が持続可能ではなくなったためである可能性が高い。もちろん、ゼロ金利政策を続ける日本とは異なり、中国にはいまだ金利引き下げの余地が存在する。しかし、主要国がインフレ対策で高金利政策を続ける状況の下では、為替下落をもたらしかねない金利の引き下げには限界があるだろう。

 一般に、合理的バブルは崩れにくいが、一旦崩れると非常に大きな影響を及ぼすと考えられる。長きにわたって続いてきた不動産市場の「合理的バブル」によって世代間の資源移転を図り、財政赤字を抑えつつ老後の安定した生活を実現する、という従来の中国経済の構造が根本から崩れれば、社会が大きく不安定化することは間違いない。

 政府当局がこの難局を乗り切るためには、当面の経済成長率を維持しつつ、低金利政策を続けながらも為替の急落を抑え、その間に今後深刻化する社会の高齢化に備えた社会保障制度の拡充と整備を行わなければならない。また、急速に拡大していくであろう財政支出を、中央政府と地方政府の間でどのように分担していくのか、ということも難しい課題だ。
 このアクロバットに近いかじ取りが、政権内の異論を徹底的に排し、習氏の身内やイエスマンばかりで周りを固めた三期目の習近平政権に果たして可能なのか。中国経済の先行きは、決して楽観を許さない。