梶ピエールのブログ

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再論・フローの格差とストックの格差

十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争

十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争

 習近平政権に関しては誕生した時、日本ではその権力基盤はそれほど強くないのではないか、あるいは政権が10年もつのかどうか疑問、という見解が結構見られたのに対し、アメリカの政府関係者や専門家の間では、その権力基盤の強固さを指摘する声がほとんどで、日米の間でその見方がかなり分かれていたようです。

 今となっては、「習近平=弱い指導者」説は全くの誤りだったことは誰の目にも明らかになりました。アジアインフラ投資銀行に代表されるこのところの中国の国際的な舞台での発言力の強化、およびそこで習近平が示している明確なリーダーシップを見ても、習近平政権が国内において非常に強い求心力を得ていることが対外的な発言力の強さにつながっていることは疑いようもありません。著者の峯村さんは、習近平政権が誕生した時に胡錦濤国家主席が完全引退することをスクープした辣腕の政治記者として知られていますが、かなり早い段階から習近平の権力基盤がかなり強固であることを見抜いていたようです。
 本書は、習近平が盤石の権力体制を築くにいたった過程と、その背景にあった熾烈な権力闘争の実体について圧倒的なソースと取材により、ファクトを積み重ねる形で明らかにした、読みごたえのあるルポルタージュです。

 で、本筋とは関係のないところですが、本書に一ヶ所だけ残念な記述があったので、指摘しておきます。

北京大学中国社会科学調査センターが2014年7月に発表した統計によると、所得分配の不平等を表わす指標であるジニ係数(0〜1の間で1に近づくほど所得格差が大きくなる)は0.73に達した。1パーセントの富裕層が、中国の全財産の約3分の1を占めている状態だという。
 これは社会の混乱を招くとされる「危険ライン」の0.4をはるかに超えており、日本の0.37と比べても異常な数値であることがわかる。ほんの一握りの人間だけが、本当ならば13億人に分け与えるべき冨を独占しているのだ(309ページ)。

 この記述は、『中国民生報告2014』という、同センターが2010年と2012年に行った中国の家計に関するパネル調査の報告書の内容に基づいているのだと思います。

 で、上記の記事を読んでみると、「2012年の中国における家計純資産のジニ係数は0.73」という記述があります。つまり、0.73というのは所得や消費といったフローの格差ではなく、純資産というストックの格差なわけです。「0.4が危険ライン」というのは、通常所得や消費などの、フローの格差について言われる基準です。

 というわけで、これは以前ブログで問題にしたように、フロー概念のジニ係数とストック概念のそれを混同するミスリーディングな記述の典型ということになります。

 なぜフロー概念(所得)の格差とストック概念(資産)の格差を混同することがまずいか、という点に関しては、以前のエントリの記述を繰り返しておきます。

 なぜこの二つを混同してはいけないかというと、フローの格差とストックの格差とでは政策の優先度が違うからです。政府が是正をしなければならないのは後者ではなく前者です。というのも、収入や消費の格差の拡大は、社会が根絶すべき「貧困」の拡大と強く結び付いているからです。収入や消費水準の格差拡大は、失業や不況などのネガティブなショックによって生じることが多く、その結果人々の最低限の生活が保障されなくなる可能性が高くなり、社会の不安定化をもたらすと考えられます。実際のところ、課税や社会保険を通じた政府による再分配も、資産課税などを除けばフローの格差をターゲットとしています。

 一方、ストックの格差はどうでしょうか。この点を考える上で重要なのは、資産価格が一般の物価よりも大きく変動しやすい、ということです。一般に「資産」としての価値を持つ財は、現在における使用をベースにした需要の他に、将来の値上がりを見込んだ投機的な需要も存在するからです。バブル経済、とまではいかなくても、一般的に景気がよくなれば株価や不動産価格が大きく上昇し、資産格差は拡大しします。アベノミクス以降の日本でもまさにそういった現象が起きています。しかし、このような資産格差の拡大は一概に悪いことといえるのでしょうか。

 資産価格の上昇による格差の上昇によって、確かに社会の不平等感は増しますが、それ自体では貧しい層がより貧しくなり、「最低限の生活が保障されなくなる」ことを意味しません。そして、日銀による「バブル退治」の時のように、資産価格の上昇を恐れてそれを無理に押さえ込むような政策を行うと、どういう結果が得られたでしょうか。それによって確かに資産格差は縮小したかもしれませんが、その後日本経済は長期間デフレに悩まされることになり、深刻な貧困問題も生じることになりました。

 以上のように、フローの格差とストックの格差はそもそも違うものであるだけでなく、混同して対処すると危険なものだと言えます。

 おそらく、ジニ係数などの格差指標については、その名称と数字だけが独り歩きしているせいだと思いますが、峯村さんだけではなく、この二つを混同してしまうミスは、かなり広く見られるように思います。

 もちろん、ピケティの著作で改めてクローズアップされているように、資産格差が問題でないわけではありません。ですが、その場合は資産格差うしの数字で比較をすべきです。たとえば、北京大学の数字0.73は上のブログでも言及した西南財経大学の報告書による家計資産格差の数字0.717とも非常に近いので、だいたい0.7前後が家計の資産格差の現状を表した数字なのだな、ということが推定できます。また、2006年に社会科学院が公表した報告書では全国の家計資産のジニ係数は0.653ほどだったので、(二つの調査のサンプルの偏りがないと仮定すれば)この10年ほどで確実に資産格差が拡大したということもわかります。

 また、北京大学の報告書にある「1%の富裕層が30%の富を保有している」という表現ですが、ウォール街占拠運動の際などによく持ち出された、「1%の富裕層がアメリカ全体の金融資産の40%以上を独占している」という数字など比較してみてもよいでしょう。
 また、以前シノドスに寄稿した記事でも書いたように、2008年以降中国における所得のジニ係数は減少傾向にあります。しかし、上述のような資産のジニ係数はおそらく大きく拡大しているわけです。このような観点から改めて中国政府の分配政策を評価することも必要となってくるでしょう。
 このように、格差についての意味のある議論を行うためにも、フローの格差とストックの格差を混同しないことが大前提となる、ということは改めて強調しておきたいと思います。