梶ピエールのブログ

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『鰯雲』と「ルイス・モデル」(ネタバレあり)

 昨年が生誕100年ということで成瀬巳喜男監督の特集上映会が日本国内でもあちこちで行われているようだが、UCBのPacific Cinema Archive で現在行われているものは北米、いや海外でも恐らく最大規模のものだろう。単に上映本数が多いだけでなく、小さなホールだが毎回満員になる大盛況で、ベイエリアにおける日本映画への関心の高さがうかがわれる。僕はこちらに来るまで1本も観たことがなかったものの、韓流好きリフレ派先生がブログで盛んに取りあげているのに釣られて観はじめたところ、その笑わせどころ・泣かせどころのツボを心得たある意味演劇的な世界にすっかりはまってしまった。PFAスタッフのいかにもアメリカ人っぽい(偏見です)杓子定規な対応もあって(補助椅子を置くとか、キャンセル待ちの客を並ばせといて空席状況を見て入れるなど少しは工夫しろ!)特に有名な作品はことごとく売り切れて見ることができなかったが、まあ日本に帰ってからの楽しみということにしておこう。

 さて、よく指摘されることだとは思うが、成瀬映画にはいかにも生活感ただよう、具体的なモノの値段やサラリーにまつわるエピソードが頻繁に登場する。時代ごとに細かくメモしていけば日本の消費経済の歴史についての資料としても使えそうである(この意味で昭和35年の『娘・妻・母』などはネタの宝庫である)。ただそれらは圧倒的に都市の家計に関するミクロな話が多いのだが、その中で昭和33年の作品『鰯雲』は、高度成長期における農村の変容というマクロな状況を真正面から描いた作品として特筆すべき作品である。

 映画は、東京近郊の農村の旧地主の長男・初治(小林桂樹)の嫁とりの話と、初治のおばで戦争未亡人の八重(淡島千景)と彼女と一緒に初治の嫁取りを手伝うことになった新聞記者(木村功)との不倫物語を軸に進むが、成瀬映画には珍しい農村を舞台にした作品ということで、最初はちょっとなじめなかった。なにしろ人間関係が複雑で、例えばまだ若くて色っぽい八重が初治の姉でなくおばだというのを理解するのにかなり時間がかかったりした。また淡島や小林の演技が基本的に他の成瀬作品のような都会調であるのに対し、八重の兄和助(中村鴈治郎)の、家族や「分家」に対する抑圧的な振る舞い、八重の姑の因業ぶりなどは「一体どこの国の話やねん」と思えるような封建的なものであり、そのギャップにも少々戸惑った。だが話が進むにつれて、このコントラストはかなり計算されたものであることがわかってくる。兄に「結婚は家同士がするものではなく個人がするものだ」と懇々と説き、耕運機を使って颯爽と田を耕す八重はまだ戦前の「封建的な」雰囲気を残す農村のなかで、一貫して「近代」を象徴する存在なのだ。

 かつての地主としての対面を気にして盛大な婚礼をあげることばかりにこだわり、一向に話を進めようとしない父親に業を煮やして、初治達が八重にそそのかされる形で半ば駆け落ち的に八重の友人(新珠三千代)が切り盛りする料理屋の二階に下宿しようとするあたりから、物語は俄然面白くなってくる。料理屋での新婚の夜に、初治とその嫁みち子(司葉子)がお互いの親についての思い出を語り合うシーンがいい。初治の実の母でもあるみち子の継母(杉村春子)は、和助の家に嫁に来た当時野良作業に追われてほとんど包丁などもたせてもらえなかったという。『めし』など他の成瀬作品において、都会に住む主人公が毎日夫に「めしまだか?」と言われるばかりの生活に疲れきった様子が描かれるのと対照的である。

 さて、映画の後半では、初治をはじめ和助の三人の息子達は、東京に働きに出たり、別居したり、意に染まぬ恋愛をしたり、ことごとく父の意思に反して独立した振る舞いをするようになる。また、それにつれて、冒頭では周りからかなり「浮いて」いる感じを受けた都会的な淡島の演技が、面白いことにだんだん気にならなくなってくる。これは若い初治らの世代になり、古い農村の価値観が急速に変わっていくに従って、「近代」を象徴する存在としての八重とのギャップが埋まっていった、ということだろうか。

 さて、このあたりの農家の息子の独り立ちをめぐるストーリーは、日本の高度経済成長を支えたメカニズムとして吉川洋氏などが強調する「ルイス・モデル」の過程そのものである。ルイス・モデルについては以前も取り上げたことがあるid:kaikaji:20050925が、これはもともと農村に過剰人口をかかえる発展途上国の「二重経済」的な経済発展を説明するモデルである。これに対して吉川氏の議論は、日本の高度成長が、農村から都会へ労働力が流出することによって生じる世帯数の増加、それがもたらす最終財の需要拡大、そして工業部門における労働需要拡大、といった現象が相互に作用しあうことによってもたらされたとするものである。例えば、吉川氏の『現代マクロ経済学ISBN:4423895129 には、「1955−75年の20年間に、日本の人口は約9000万人から1億1000万人へと約20%ほど増加したに過ぎないのに対し、世帯数はこの間約80%近い伸びを記録している」という記述がある。

 例えば『プロジェクトX』に代表されるように、日本の高度成長を都市・工業の立場から振り返ったノンフィクションの類は数多くある。それに対し『鰯雲』は、高度成長を農村の側から眺めた風景について、きっとこういうものだったんだろう、という豊かなイメージを与えてくれる貴重な作品である。上記に述べたようなルイス・モデルのメカニズムは、映画で描かれる農村における地主制の解体と結婚やイエに対する価値観の変化なしには恐らくありえなかったろう。一家の中で最初に家を出て街に下宿しようとするサラリーマンの次男に向かって和助が「(このままでもやっていけるのに)わざわざ世帯をわけるなんてとんでもねえ不経済だべ」となじるシーンなどは実に象徴的である。しかし、その「不経済」な振る舞いこそが世帯と需要の増加を通じて日本の高度成長をもたらしたのだ。
 おそらく、ある時期の韓国や台湾の農村においてもこれと同じような光景が見られたことだろう。しかし、中国においては、農村からの労働力移動は決してこのような世帯数と内需の増加を伴う形では生じていない。・・などといった風に観終わったあといろいろ想像をめぐらせてしまう『鰯雲』という作品は、僕のようなアジア諸国の経済発展に興味を抱いている人間にとって、実にツボにはまる映画なのである。