先日の「追記」に書いたように、イエール大学のウェブサイトに講演当日配布されたものと同じペーパーが掲載されていたようで、たぶん僕よりも正確に読んでくれる人が出てきていろいろツッコミを入れてくれるだろうから、「知的遺産」というような大層なものではなく、議論のたたき台のつもりで気楽に流していくことにしたい。
0.「動機付け」と「規範」
さて、アカロフ氏の講演の主要な内容である、新古典派的な政策命題である「5つの中立性」の批判を検討する前に、その批判の理論的コアとなっている、経済主体の行動原理を考える際の「動機付け」の必要性について述べておこう。
マクロ経済学の「ミクロ的基礎付け」という時、とりもなおさずモデルが個人(あるいは企業)の効用最大化原理に基づいている、ということを意味する。しかし、その際の「効用」とはなにか、という点に関してはそれほど深い考察と議論がなされてきたとは言えず、結局のところそれは金銭的な利得によって代替されてきたといってよい。しかし、実際には個人の「効用」には金銭的な利得であらわされないものも含まれているはずである。したがって経済主体の行動を「効用最大化」として理解するには、そこに働く金銭的なもの以外の「動機付け」に注目することが必要となる。
その「動機付け」の具体例として、アカロフ氏は「登山家がなぜ山に登るか」「教師はなぜ教えるか」「Milgromによるアイヒマン実験」などをあげるが、中でも興味深いのはアメリカの社会学者・ゴフマンによるメリーゴーラウンドで遊ぶ子供の例である。言うまでもないことだが、メリーゴーラウンドで楽しく遊べるのはある一定の年齢以下の子供であり、ある程度大きくなると面白くなくなる(効用を得られなくなる)。なぜか。自分にとってあまりに容易すぎる行為を行うことに対する動機付けが働かなくなるからである。これは大人になってからの仕事にも言えることであり、一定の能力があるにもかかわらずあまりに簡単な仕事ばかりを与えられるとやる気が失われる。これは、個人をしてある行為(経済的な行為を含む)を選択せしめる「動機付け」は、必ずしも金銭的なものに限られない、という一つの例である。
このような金銭的なものではない行為の「動機付け」を与えるものとして、「規範(norm)」の存在を考えることの重要性をアカロフ氏は強調する。そしてこれまでの経済学における効用理論には、このような「規範」に関する考察が欠けていたと指摘する。そのことによって導かれた理論的誤りの例としてアカロフ氏が挙げるのが、先日のエントリで触れた、新古典派的な政策的インプリケーションを導く5つの「中立性」に関する定理または仮説である、というわけだ。
1.リカードの等価性定理について。
5つの「中立性」にかんする定理・仮説の中で、まず最初に取り上げられるのが「リカードの等価性定理」である。この定理は、簡単に言うと、政府が現時点で増税をして(国民の所得を減少させて)公共サービスを提供する場合と、国債を発行して(現時点での国民の所得を変化させずに)サービスを提供する場合とでは、消費や資本蓄積など民間の経済主体の行動は影響を受けない、というものである。そのロジックは以下のようなものである。すなわち、たとえ現時点で増税が行われなかった場合でも、経済主体が合理的であれば、将来のある時点で増税が行われることを予想し、その場合に備えて貯蓄をしておこうとするので、現時点での消費水準には変化を与えないはずだ、と。これは1970年代にバローにより新しい光が当てられ、ケインズ的な財政出動による景気浮揚政策が効果を持たないことを示すロジックとしてしばしば用いられてきた。この定理をめぐっては、すでに膨大な議論がなされているが、それらについてはD.ローマー『上級マクロ経済学』などを参照のこと。
理論的な面だけではなく、実証的にもこの定理はこれまで支持されて来たとはいいがたい。等価性定理が厳密には成立しない理由として、理論の前提を修正するようなさまざまな要因(家計の流動性制約の存在、海外からの借り入れの存在、将来の不確実性の存在、課税のゆがみなど)の存在がこれまでに指摘されてきた。しかし、より根本的な問題は、上記のロジックの中に、経済行為が選択される「動機付け」への視点が欠けていることであると、アカロフ氏は指摘する。
このことをわかりやすく示すために、二世代間にわたる効用最大化のモデルによってこの定理を考えることにしよう。まずモデルの前提として、各個人は一世代のみを生きるが、次世代に財産を残すことができるものとする。そして第一世代(親)の効用水準は、自分が生きている間の消費水準と、次世代(子)の消費水準の双方によって影響を受けるとする。このモデルの特徴は、世代間の所得移転の問題をあたかも個人のライフサイクルにおける異時点間の効用最大化と同じようにして考えられることで、このモデルに従えばリカードの等価性定理はやはり成立することになる。すなわち、親の世代における公共サービスの提供が国債でまかなわれるとすれば、親は確かに自分自身の可処分所得は増えるが、国債を償還するために自分の子の世代に課税が行われることを予想し、増加した可処分所得を自分自身で全て消費してしまうのではなく、「遺産」として次世代に残しておこうとするはずである。したがって国債発行により公共サービスの提供が行われても第一世代の効用水準は何も変わらない、というわけである。
これに対して、アカロフ氏は、次世代への「遺産」の相続は、個人のライフサイクルにおける効用最大化とは根本的に異なった「動機づけ」によって行われていると批判する。つまり、子に遺産を残すという行為は一種の「贈与」であり、親にとって子に遺産を残し、楽な暮らしをさせてやりたいというのはそれ事態が価値のある(効用を得られる)行為である、とする。このように考えるならば、上記のような二世代間モデルにおいて「等価性定理」はもはや成り立たない。公共サービスが国債によってまかなわれる場合、第一世代は、子に遺産を残してやることができるという点で、同じサービスが課税によりまかなわれるよりも明らかに高い効用を得られるだろうからである。逆に言えば、サービスが現時点での課税によりまかなわれた場合には、第一世代は自分の可処分所得が減ったにもかかわらず、なんとか遺産を残そうとして自身の消費を切り詰めるかもしれない。
このように、「世代間の所得移転」が「贈与」という規範によって動機付けられていると考えた場合には、現時点での負担を伴わない公共サービスの提供は明らかに個人の消費行動に影響を与える、すなわち「中立性」は成立しないのである。