梶ピエールのブログ

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ラディカル・オーラル・ヒストリー(続)

 既成のアカデミックな歴史学への批判(否定ではない)的姿勢を崩さず、アボリジニ達の「ケネディ大統領が俺達の村にやってきた」というような「語り」を、単に史実と異なる誤りや、彼らが信じている神話の一種だとして切って捨てるのではなく、まず「歴史的実在」として受け止めよ、と主張する保苅実の立ち位置は、一見社会構築主義的な近代批判に極めて近いもののように思われがちだし、実際彼が生前一緒に活動していた人々にはそういった立場の人が多いようだ。
 この本にも時々そういった文化左翼的な背景に立ったやや硬直的と思われる政治的発言をしている箇所があり、そこははっきり言ってあまり評価できない。ただ、それでも僕は彼の著作からは大きなインパクトを受けた、と言わざるを得ない。それは、スピヴァクが自省をこめて語っているように多くのカルスタ・ポスコロの理論家が「フィールドから離れてサロン的文学論を展開しているだけ」にとどまりがちなのに対し、彼が実際にアボリジニのコミュニティに出向いていって汗をかいているから、というだけの理由ではもちろんない。
 むしろ、たぶん彼自身も気づいていたように、彼の行ってた歴史の実践は、そもそも既存のポストコロニアリズムや社会構築主義の理論に対する文字通りラディカル(根源的)な批判をも含むものだった、と思うからだ。


 では既存の社会構築(構成)主義的な近代批判と保苅氏の仕事とはどういった点で異なるのだろうか。そこで思い至ったのが、唐突かもしれないが社会構築主義の立場からのラディカル(過激)な科学批判で知られるブルーノ・ラトゥールによる、一般に「科学社会学」とか「科学人類学」といった名前で呼ばれている、神経ホルモンの研究者集団を対象として行ったフィールドワークだ。これは、ソーカル=ブリクモンの『知の欺瞞』にも取り上げられたので知っている人も多いと思うが、僕の理解する範囲で簡単にまとめると、彼らは、あたかも人類学者が近代とは異なる生活習慣を持つ「未開」部族の社会に入り込んでフィールドワークするように、神経ホルモンの研究者を「神経ホルモンについての客観的事実などというものの実在を信じているわけのわからない人たち」とみなし、その共同体に一定期間参与観察することによって、科学者達の行動原理を自分達(=社会的構築主義者)にもわかるような言葉とロジック(彼ら/彼女らは自分達の社会的行為の結果生み出された概念を、初めから実在しているものと思い込んでいくのだ、とか、結局は金と名誉のためにやっているんだ、とか)で説明しようとしたものである。

 こういったラトゥールの科学批判に対する、戸田山和久さんの近著『科学哲学の冒険』に出てくる「センセイ(戸田山氏の分身?)」の次のような反論が非常に印象的だ。

 科学者のやっていることは呪術師の振る舞いのように奇妙なことに見えるかもしれないけど、その奇妙さはたんに、自分がよく知らないからであって、科学者に説明してもらえば、わりと簡単に解消するはずのものなんだよね。けれども、彼らはあえてそれをしない。なぜだろう。科学者が本当のところ何をやっているのかを知りたかったら、科学者に聞いてもよさそうなものだろ。

おそらく、彼らは、科学的事実は全て社会的構成物だということをあらかじめ前提していると思うんだ。(中略)でも本当は、出発点におかれていた前提、科学的事実は全て社会的構成物だということこそが確かめられなければならないはずなんだよね。


 さて、このセンセイの発言は、実は保苅氏が本書において繰り返し発している次のようなうめき声にも近い問いかけと極めて似てはいないだろうか。
 「なぜ、誰もアボリジニ達の語りに対して、まず敬意を持って耳を傾けようとしないのか?」「なぜアカデミックな歴史家は、アボリジニ達の語る「歴史」を、自分達の(近代的な)歴史観をあらかじめ前提とした上でしか判断できないのか?」
 もちろん、この問いかけは実際、いろいろな問題も含んでいる。正直言って、自分達の村にケネディがやってきたという彼らの語りの実在を、科学的な事実の実在と同じレベルで受け入れることには相当の抵抗がある。その際の抵抗をあっさり手放してしまうことはむしろ知的な誠実さを欠く行為だといってもいいだろう。

 しかし、にもかかわらず、次のようなことは言えるのではないか。自らのよって立つ学問上・政治上の立場にかたくなに執着し、聞き取りを行う相手に敬意を払い、その言葉に耳を傾けるようとするのではなく、初めから用意された自分達のロジックによって解釈することだけしか考えない、という点において、保苅氏が批判する「(カリカチュアライズされた)近代的なアカデミシャン」と、一見厳しい近代批判を展開しているようにみえるラトゥールとは奇妙な一致を見せている、と。その意味で、じつはラトゥールのようなある種「自らを高みに置く」態度は、保苅氏が行った歴史的実践とはもっとも遠い立場にある、と言えるのではないだろうか。

 保苅氏は、自分なりのポストモダン史学批判として「経験」に真摯である、つまり「経験」の実在を信じる、という立場を表明している。これもすぐに理解するのは難しい言葉だが、既存の社会構築主義が「実在」を敵視するあまり、科学者や実証的な歴史学者から総スカンを食らい厳しい立場に追い込まれつつあるのとはむしろ対照的な柔軟さをそこからは感じ取れるように思える。
 この本でも触れられているように、人が「歴史と記憶」の問題について好んで語ろうとするのは決まって戦争や「国民の歴史」が絡んでくる時であり、それがいつもこの問題に政治的な色合いを与えてしまう。しかし、そういった政治的な思惑を一旦離れた「実在」というものに関する純粋に哲学的な探求として、例えば「経験」に対して真摯なラディカルなオーラル・ヒストリアンと科学的「実在」に対して真摯な科学哲学者との間に対話は可能なのではないか、そこに何か大きな可能性が見出せるのではないか、ということを最近読んだ2冊の本を前に、つらつらと考えているところだ。