梶ピエールのブログ

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台湾のひまわり運動と柄谷行人の「無節操」、あるいは実体化される「アジア」


 もう1か月前に出た出版物に関するものですが、ブログ「路上の人」の連載に書いたこととも関連するので、とりあえず公開しておきます。

社会運動2014.11 No.415

社会運動2014.11 No.415


 タイトル通り市民運動関連の原稿を集めたムック『社会運動』最新号で、「新しい対抗運動の可能性」と題した台湾のひまわり学生運動(学運)の特集が組まれている。特集は、今年の夏にひまわり学運―「ひまわり革命」という用語は感心しない―を支持してきた台湾の知識人二人を迎えて行われたシンポジウムの抄録と、丸川哲史による論考からなっている。ちなみに、シンポジウムの参加者である港千尋は、学生達による立法院選挙に関する豊富な写真をあしらったルポルタージュ『革命のつくりかた』の著者でもある(朝日新聞に掲載された書評はこちら。また、黒羽夏彦さんによる書評も参照のこと。)

 台湾の二人の知識人、ならびに港の発言は、基本的にひまわり学運およびそのリーダーたちの主張に肯定的だ。ただし、台湾の二人の知識人の政治的ポジションは明らかに民進党よりなので、基本的にその立場からの発言、ということになる。その立場を簡単にまとめると、「中国の国家資本主義に呑み込まれることをグローバル資本主義の横暴と表裏一体にとらえ、それに対する対抗運動としてひまわり学運を評価する」、といったところだろうか。それに比べてその外部からの発言を行っている港は、イデオロギー的にとらえることをできるだけ避け、学生運動のもっている「何かよく解らないが、人を惹きつけ事態を動かす力」に反応してそれを捉えているようにみえる。

 一方、シンポジウムの終わりにくっついている丸川哲史の論考は、一連の運動を自らの依って立つイデオロギーによって切り取ることで、その「人を惹きつけ事態を動かす力」の可能性に対する感覚を閉ざしてしまっていると思う。たとえば、丸川は言う。台湾における中国とのサービス貿易協定批判の声は、決してTPP批判へと展開していくことはない。だからそれは、結局のところ新自由主義への対抗運動としては不十分なものであり、それを支えているのはむしろ蒋介石の国民党政権の時期からの連続性を持つ台湾の「反中・反共ナショナリズム」ではないか、と。詳細な検討は省くが、そこで展開されているのは、丸川がこれまでの著作で繰り返して来たおきまりの台湾ナショナリズム新自由主義批判の焼き直しである。

 一方柄谷は、ひまわり学運の立法院占拠を1960年安保による国会への働きかけと重ね合わせて評価しようとしている。彼によれば、議会制デモクラシーの限界に突き当たり、立法院の占拠という直接行動に出た学生達は、いわば民会ではなくアゴラで民衆に語りかけたソクラテスと同じ思想的立ち位置にいるのである。つまり、「成人した国民」以外は排除される議会(民会)ではなく、誰もが参加資格がある集会・デモ(アゴラ)こそ、デモクラシーの限界を超えたイソノミア(無支配)を実現する可能性を含んでいる。かつての60年代安保と同じくそこにこそひまわり学運が「新たな対抗運動」として評価される根拠があるのだ、と言うわけだ(実際には、ひまわり学運は議会制デモクラシーを否定しているわけではなくて、むしろそれを擁護しようとする姿勢から、それが馬英九政権により危機にさらされたことに抗議して生じたたのだが)。

 要するに、柄谷(および台湾の知識人)は運動が「ネイション=国家=資本の枠組みを超えるものだからいい!」と言っていて、丸川は「ネイション=国家=資本の枠組みにはまっているからダメ」と言っているわけだ。この二人の発言を続けて読んだものなら誰でも「どっちやねん!」と突っ込みたくなるだろう。

 さらに、このように台湾のひまわり学運を支持する柄谷の姿勢は、儒教を構成原理とする「中華帝国の原理」を肯定する最近の言論活動とどう考えても相互に矛盾をきたすはずだ。例えば、『現代思想』2014年3月号(特集:「いまなぜ儒教か」)の丸川哲史との対談で柄谷は、むしろ丸川と非常に近い立場から中国的な、ネーション=国家=資本とは異質な、「儒教」を核とする中華帝国的な秩序を全面的に肯定する発言を行っている。つまり、柄谷の一連の発言を虚心に読む限り、政治的に中国を擁護し、台湾ナショナリズムを批判する丸川との対話では中国の帝国的秩序を肯定し、一方中国に批判的な台湾知識人との対話ではヒマワリ学運を持ち上げる発言を行うという、どう考えても「二枚舌」としか言いようのない言論を展開しているわけだ。
 これを、単に柄谷が節操のない奴だ、ということで片づけることは簡単だろう。だが、僕は問題の根はもう少し深いと思っている。


 問題は、この「路上の人」の連載でも書いたように、近年の柄谷の「アジア主義的転回」(とでもいうべきもの)の姿勢そのものから来ている。要は、観念的な考察を一歩離れたところでの最近の彼の発言は、それが日本であれ中国であれ台湾であれ、近代的なネイション=国家=資本に回収されない要素をいたるところに見出し、それをひたすら「素晴らしい」と持ち上げることに終始しているのではないだろうか。それがあるときは柳田国男への傾倒であったり、あるときは中華帝国の再評価であったり、また議会を通さない対抗運動としてのひまわり学運への肩入れであったりする、ということではないだろうか。
 このような柄谷の姿勢は、彼が追い求める「ネイション=国家=資本を超えるもの」とは結局のところ「そうではないもの」という否定神学的にしかその本質を捉えられないのではないか、という疑いを呼び起こす。だが、そのことはとりあえずおいておこう。より深い問題とは、その姿勢がしばしば、「アジア的なもの」の実体化につながってしまうということである。

 この「アジア的なもの」の実体化がはらむ問題点については、以下のように子安宣邦が明快な批判を行っている。

東アジアと普遍主義の可能性より

竹内がいう〈方法〉とは〈実体〉に対するものである。彼は1960年の講演でこういっている。「東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する、これが今の東対西という問題点になっている。・・・その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としてはありうるのではないか。」(「方法としてのアジア」)。彼はここで「方法として」ということ以上に何もいっていない。しかも竹内は「方法として」をはっきりと「実体として」に対していっているのである。

竹内の言説の積極的な読み手たちは、この補正によって竹内の発言を、アジア的変革を担う民族的主体の形成を通じてのヨーロッパ近代とその〈普遍的価値〉の練り直し的再生をいうものと解するならば、それは竹内が「方法としてのアジア」といったことと微妙に違う、新たな価値的な〈実体としてのアジア〉の形成をいうことになってしまうだろう。すなわちアジア的主体による近代ヨーロッパの超克の方式になってしまうだろう。そうなると竹内の「方法としてのアジア」とは、欧米的〈普遍的価値〉に対して「社会主義的核心的価値」をいう現代中国の党=国家的戦略と同じものになってしまう

とくにこの後段の「〈実体としてのアジア〉の形成」に関する批判は、近年の柄谷のアジアの現実に対する発言にそのままあてはまるだろう。すなわち、たとえ台湾の学生運動への肩入れであっても、それが議会制デモクラシーに代表されるヨーロッパ近代起源の制度と、その〈普遍的価値〉に対抗する〈実体としてのアジア〉をそこに見出だし評価するという姿勢から行われるのであれば、それは結果として欧米的〈普遍的価値〉に対して「社会主義的核心的価値」をいう現代中国の党=国家的戦略を評価することと「同じものになってしまう」、ということである。柄谷の『帝国の構造』その他の発言における中国政治に対する現状肯定的な姿勢が、そのことを端的に示している。

 つまり、柄谷がなんとか肯定しようとする「アジア的なもの」は、結局のところ本質を持たない、空虚なものでありながら、その時々の政治状況によって具体的な運動なり政治体制への評価という形をとって恣意的に「実体化」されている、と言わざるを得ない。そして、その「恣意性」の故に、「アジア的なもの」の実体化は、その時々の政治勢力によって「政治利用」されるという危険性を常にはらんでいる。そしてその権力による「政治利用」は、結果としてひまわり学運のような民衆の「権力の多元性」を求める姿勢から生じてきた対抗運動を押しつぶす方向に作用するだろう。

 もちろん、政治利用される恐れのある思想はそれだけでダメだ、と短絡的にいうことはできない。しかし、昨今の柄谷による中華圏の現実に対する発言の場合、あまりにもそれが無自覚におこなわれていること、そして誰もそれに気づこうとしないこと、あるいは気がついてもきちんと批判しようとしないこと、そのことが問題なのである。

革命のつくり方

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哲学の起源

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現代思想 2014年3月号 特集=いまなぜ儒教か

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