外務省が出している外交専門誌『外交』のVol.53に、岸政彦『マンゴーと手榴弾』およびフランチェスコ・グァラ『制度とは何か』ブックレヴューを寄稿しています。
- 作者: 岸政彦
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2018/10/30
- メディア: 単行本
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- 作者: フランチェスコ・グァラ,Francesco Guala,瀧澤弘和,水野孝之
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
- 発売日: 2018/11/13
- メディア: 単行本
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この2冊を取り上げたのは、社会的なものの実在を否定するのではなく、人々の実践を通じた改良を積極的に評価しようとする姿勢に共通するものを感じたからです。グァラの著作については、ブックレビューでは紙幅の関係で省略したのですが、勉強のつもりで結構詳細な読書メモを作成したので、以下に紹介します。なお、この本に関しては山下ゆさんのブログでの紹介記事もあります。
ゲーム理論に依拠した制度論の立場から、社会的制度の実在性を認めつつ、制度がより望ましい方向に改良される可能性を認める、いわば「より洗練された実在論」を提示しようとしているのが、フランシスコ・グァラ『制度とは何か』である。特に後半部分、社会的構成(構築)主義に対する批判に殆どの記述が充てられていて、そこが非常に興味深い。
ここでいう「構成主義」とは「ある一つの対象ないし複数の対象が、自然的要因よりもむしろ社会的/文化的要因によって引き起こされたり、コントロールされたりしている」という立場に立つ。そのことから、社会的な制度や現象、区別、あるいは「日本人のアイデンティティ」といった抽象的な概念を自然主義的に説明することを拒絶する、という姿勢が導かれる。特に構成主義が論争を招きやすいのはのは、人種やジェンダーのような社会的な領域に関する事柄にもかかわらず、自然的な領域に関するものとして説明されやすい制度や概念に適用されるときである。社会構成主義の重要な目標の一つは、社会的役割の自然的説明がしばしば事実無根であることを証明することによって、これらの制度の実在性=強固さに挑戦することにある。
つまり構成主義は、ある種の社会的な事象について明確な「反実在論」の立場に立つのだ。ここでいう「反実在論」とは、社会的な事象が、人々の理論や信念、表象など「心の中にあるもの」から独立して存在するのではない、すなわち、理論や信念、表象などに「依存して存在する」ことを主張する立場のことである。
この依存性のテーゼには因果論的依存性と非因果論的依存性とが存在する。このうち、因果論的依存性が社会的な事象の「実在性」を覆さないことについては、比較的容易に説明することができる。社会的な事象の多くは、すなわち制度的な用語がその事象を記述すると同時に事象に変化を及ぼすがあるという意味で再帰的なフィードバックの構造を備えている。たとえば、Xを社会的にYとして分類するこということが、Xが実際にYの性質をおびることにいくらかは寄与する、という意味で、社会的な制度と社会的な事象の間には再帰性が存在する。
この再帰性の存在は、人々の「心の中にあるもの」と、社会的事象の間に「因果ループ(卵とニワトリの関係)」が存在することを意味する。このような再帰的ループは、ある社会的事象について、自然物と同じような実在性、すなわちある存在Xが社会的な「種類」であるYと分類されることによって、ニワトリを鳥類に分類する場合と同じように、一定の根拠のある帰納的な推論を可能にする効果を持つ。すなわち、その事象の諸性質について意味のある相関を見出すことができ、しかもその相関性は比較的安定していることが見いだされる。したがって、再帰性をもたらす「心の中のもの」への因果的依存は、社会的事象について、自然事象と同じような実在性を認識するうえでの本質的な障害とはならない。では、非因果的な依存についてはどうか。自然における事象や「種類」の「実在性」は、その「種類」に属する個体についての帰納的な推論を可能にする。しかし、その「種類」が、人々の信念など「心の中にあるもの」に依存しているのだとしたら、根拠のある機能的な推論が可能かどうかは定かではないからだ。
そこに、社会的な制度や「種類」の実在性を疑う構成主義が生じる余地が生まれる。そして、そこから導かれるのは一種の「不可謬主義」とも呼ぶべき姿勢である。これはすなわち、社会的制度が人々の観念に完全に依存している以上、「間違った制度」というものはありえない、とする姿勢を指す。たとえば、タバコを貨幣として用いている社会はタバコを間違って使用しているのではない。その社会でタバコを交換手段、即ち貨幣だという信念が存在している以上、その信念に依存した「タバコを貨幣として用いる」という現象はそもそも「間違いであるということは論理的にできない」からだ。
一件正しいかに思えるこの非因果論的依存性のテーゼから導かれる「反実在論」と「不可謬主義」との組み合わせを、グァラは明確に「間違ったもの」として退ける。
そこで持ち出されるのが、ハスランガーによる社会的制度が持つ3つの側面(概念)の区分である。すれがすなわち、1.「稼働的概念」、2.「顕現的概念」、3.「規範的概念」である。稼働的概念とは、言葉の使用と結びついた実践、もしくは実践の集合である。顕現的概念とは、人々が言葉を理解するために使用する理論、あるいは「ステレオタイプ」である。そして、規範的概念とは目標、すなわち私たちがそれに対して臨むような制度的存在物である、とされる。
この「稼働的概念」と「顕現的概念」は常に一致するとは限らない。たとえば、「政府が発行し、その価値を保証したものが貨幣である」という人々の信念が、貨幣という制度の「顕現的概念」であるとしよう。平時ではこの概念は「何が実際の貨幣として流通するか」という「稼働的概念」と一致するかもしれない。しかし、戦争などが原因でハイパーインフレーションに見舞われ、平時の秩序が失われた時などは、往々にして政府が発行する貨幣が人々の信用を失い、他の実質的な価値を持つもの、例えばタバコが貨幣として流通することがある。この時はタバコは人々の信念、つまり「顕現的概念」としては貨幣ではないが、「稼働的概念」としては貨幣として機能している。
このように、社会的制度は、人々の「心の中にある」信念や表象、すなわち「顕現的概念」とは独自に、ある社会の中で機能することがありうる。つまり、一見「心の中にあるもの」に依存しているかのように思える社会的制度も、実際はむしろ人々の「心の中」から独立した、人々の相互行為に多くの部分を依存している、その意味でその制度に関する人々の信念や表象は誤りうる。このために上記のような非因果論的依存性のテーゼは誤っているのだ、と本書は主張する。このような「社会的な制度は心の中のものに依存している」という「依存性テーゼ」を否定することにより、グァラは「社会的な改良主義者」という立場を提案する。この「改良主義者」としてのグァラの姿勢が最も端的に表れているのが、本書後半の結婚制度と、その同性愛者を対象にした制度への拡張に関する議論である。かれは、結婚制度について、それが異性のカップルを対象したものに限定されるべきだ、とする伝統主義者(素朴な実在主義者)の立場も、「結婚制度」に本質的なものは実在しない、とするラジカルな社会構成主義の立場もどちらも否定する。そして、結婚制度が現実社会の「顕現的概念」においては、多くの場合においては異性カップル間の制度に限定されていることを認めつつも、「規範的概念」においては、同性愛カップルも含むべきであるという判断が説得力を持っていることを主張する。その上で、現実に機能する「稼働的概念」を規範的概念に近づける、すなわち、同性愛者の間にも結婚制度を認める方向に制度を改良すべきだ、という立場を採用するのである。
社会的な制度の実在性を否定したのでは、人々は現実の社会について望ましい在り方を議論することすらできなくなってしまう。このために、本書は、社会的な制度についての実在論を放棄することなく、規範的に受け入れられない現実の制度は改革できる、という改良主義を構築主義の良質な部分として継承しようとする。緻密な理論構成によって、構成主義と自然主義的な実在論の間に、このような穏健な着地点を見出したところに、本書の最大の特徴があるといえるだろう。