梶ピエールのブログ

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東アジア研究とアイロニー

 予告したことでもあり、ぽつぽつ「(東)アジア研究とアイロニー」というお題について書いてみようと思う。

 昨年出た宮台真司仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー』(最近の宮台の対談ものでは一番面白かった)について北田暁大さんがこういうことを書いている。

「カルスタ嫌い左派」の二人が、「アイロニカル・リベラリズム」をめぐって突っ込んだ議論を展開している。コジェーヴを引くまでもなく(彼の言葉では「スノッブ」)、アイロニーというのは日本の行動・生活様式を理解するうえできわめて重要な理念であるにもかかわらず、左派論壇ではほとんど無視されてきたものだ。というよりも、アイロニーに対する敵意こそが左派的な言説をかろうじてまとめあげてきた、と言ってもいい。正面からアイロニーの政治的可能性を論じたこの書を、左派論壇が「無視」しないことを祈る。

 「アイロニーに対する敵意こそが左派的な言説をかろうじてまとめあげてきた」というのが具体的にどのような状況を指すのかはよくわからないが(ここで左派の「敵」として想定されているアイロニストとは、保田與重郎のような日本浪漫派を指すのか、それとも福田恒存のような保守系アイロニストの言説か?)、すくなくとも冷戦期から現在に至るまでの東アジアにおける政治状況にかんする「左派」の発言についてはこの図式はかなり当てはまるかもしれない。

 たとえば昨年話題になった、サッカーアジア杯における中国人サポーターによる国歌斉唱時のブーイングに対し、ある学術誌で「公教育の場での国歌・国旗の押し付けがますます強まっている日本国内の状況を考えれば、たとえ動機はどうあれ日の丸・君が代にブーイングが行われたことには快哉を叫びたい」というようなことを書いていた「文化左翼」系の人がいた。
 それを読んでつくづくと思ったのは、ああ、たとえ「差異のポリティクス」なんてことを口では言ってみても、こういう人たちの思考回路には「中国を罵倒するか、日の丸・君が代を罵倒するか」という二項対立が染み付いているんだなあ、ということである。そういう人たちからみて、昨今のような中国への批判・反感がにわかに高まった状況というのは、あたかも日の丸・君が代肯定の大合唱にストレートにつながっていくようで、不安でしょうがないんだろうと思う。
 いくらなんでも現在の良識ある人々にとって、上記のような言説は、あまりに時代遅れで現実離れしており、ほとんどギャグにしか思えないだろう。だが、単にギャグとして笑い飛ばしてもいられないのは、戦後の中国研究とか朝鮮半島研究は、相当程度こういった二項対立の思考に支配されてきた、という厳然たる事実があるからである。
 過去の日記で触れたような、木村幹さんが『朝鮮半島をどうみるか』でみせていたような苛立ちも、明らかにそういう状況を踏まえてのものである。そういった二項対立が支配する「情けない状況」を打開する手段として、木村さんは「事実に基づいて、冷静かつ客観的に朝鮮半島を見よう」と改めて主張しているのだし、実際、昨今の中国や朝鮮半島の研究の大きな流れは明らかにそちらの方に傾きつつある。もちろんそのこと自体は歓迎すべきことだし、僕自身のメインの仕事もそういった実証的な分析を行うことにある。
 しかし、その一方で僕は、専門的な研究者の端くれとして中国や朝鮮半島に対峙する時にそういった「客観的な」「事実に基づいた」態度だけではもう一つ足りないものがあるように思うのだ。そう、そこで必要なのが「アイロニー」ではないか、というわけで、僕にとってグレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』こそ、そのことを確信させてくれる格好のテキストだった(続く)。