梶ピエールのブログ

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中国版「一匹と九十九匹と」−安田峰俊『八九六四』を論ず

 現在活躍する中国もののライターの中でも最も文才豊かな一人として知られる安田峰俊は、これまで硬軟取り混ぜ様々な仕事を手掛けているが、中でも角川書店からは『和僑』『境界の人』とかなり重いテーマを取り上げた本格的なノンフィクションを出している。最新作『八九六四』もその系列に位置づけられる一冊だ。現在の中国社会において最大のタブーである第二次天安門事件に、多様な当事者のインタビューを通じて迫った本書が、著者にとっても渾身の作であるところは誰しもが認めるところだろうが、その意義についてきちんと論じることは案外難しい。

 その難しさには、著者である安田のキャラクターも一役買っているかもしれない。いかにも八十后らしい、と言えば偏見かもしれないが、上記のツイートに表れているような、つかみどころがないというか、熱いのか冷めているのか、腹が据わっているのか浮ついているのか、いまひとつはっきりしないアンビバレンツな姿勢こそがライターとしての彼の「持ち味」だからだ。 
 例えば、安田の書くものをそれなりに読んできた読者であれば誰しもが知っているように、彼は「中国の民主化や人権問題などに関心を持ち発言する日本人」に対し、これまで挑発的ともとれる批判的な発言をしばしば行ってきた。だが一方で、彼はそういった「重い」問題について、他の中国クラスタのライターに比べてもはるかに積極的に語り、関係者とも会い、こうして本も出している。
 このような安田がライターとして持っているアンビバレンツな性格について、かつて僕は「脱思想性」「脱倫理性」の陰に隠れた「もう一つの倫理性」がそこにあるのではないか、と述べたことがある。その「もう一つの倫理性」が本書ではより明確な輪郭をもって思想として、読者の前に現れてきた、というのが僕の印象だ。

 本書を読んで、すぐに思い浮かんだ文章がある。それは保守派の文芸批評家として知られる福田恆存が、戦後間もないことに書いた「一匹と九十九匹と」である。やや長いが、以下に引用したい(引用は『福田恆存評論集第一巻: 一匹と九十九匹と』より)。

 善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文學に期待する。が、惡しき政治は文學を動員しておのれにつかへしめ、文學者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犧牲は大多數と進歩との名分のもとにおこなはれるのである。くりかへしていふが、ぼくは文學の名において政治の罪惡を摘發しようとするものではない。ぼくは政治の限界を承知のうへでその意圖をみとめる。現實が政治を必要としてゐるのである。が、それはあくまで必要とする範圍内で必要としてゐるにすぎない。革命を意圖する政治はそのかぎりにおいて正しい。また國民を戦爭にかりやる政治も、ときにそのかぎりにおいて正しい。しかし善き政治であれ惡しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が殘存する。文學者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と迷ひとを體感してゐなければならない。
 この一匹の救ひにかれは一切か無かを賭けてゐるのである。なぜなら政治の見のがした一匹を救ひとることができたならば、かれはすべてを救ふことができるのである。ここに「ひとりの罪人」はかれにとってたんなるひとりではない。これはこのひとりをとほして全人間をみつめてゐる。善き文學と惡しき文學との別は、この一匹をどこに見だすかによつてきまるのである。一流の文學はつねにそれを九十九匹のそとに見てきた。が、二流の文學はこの一匹をたづねて九十九匹のあひだをうろついてゐる。なるほど政治の頽廢期においては、その惡しき政治によって救はれるのは十匹か二十匹の少數にすぎない。それゆゑに迷へる最後の一匹もまた殘餘の八十匹か九十匹のうちにまぎれてゐる。ひとびとは惡しき政治に見すてられた九十匹に目くらみ、眞に迷へる一匹の所在を見うしなふ。これをよく識別しうるものはすぐれた精神のみである。なぜなら、かれは自分自身のうちにその一匹の所在を感じてゐるがゆゑに、これを他のもののうちに見うしなふはずがない。

 よく知られているように、これは戦後間もない時期に、当時大きな影響力を持っていた、プロレタリア文学の流れを汲む左翼的な文学者たちによって主張された「文学は『善き政治(この場合は社会主義を目指す進歩主義)』の実現を目指す手段としてのみ価値を持つ」、という政治主義的な姿勢を批判し、文学の固有の価値を擁護するために書かれたマニフェスト的な文章である。
 ただ、上記の一節を読んでもわかるように、福田は左翼的な文学者への批判を一筋縄ではいかない、やや難解なロジックを用いておこなっている。ここで福田は、社会主義を単に自由主義の立場から、「悪しき政治」を必然的に帰結するものとしてそれを批判しているのではない。福田によれば、社会主義の下でも「善き政治」は実現するかもしれないが、それでもかならずその体制の下では救われない「失せたる一匹」は出現する。しかし、当時の多くの左翼的な文学者は、「(戦前の軍国主義という)惡しき政治に見すてられた九十匹」にしか関心がなく、その惡しき政治の対極にあるものとして社会主義を信奉しているに過ぎない。「文学者」がみなそのような「善き政治」を目指す存在になってしまったなら、彼(女)らの唱える社会主義が現実的なものとなった時、だれも「失せたる一匹」に関心を持たなくなってしまうだろう。それこそが「最惡の政治」をもたらすのだ――以上が僕なりにパラフレーズした福田の批判の骨子である。
 この議論が、スターリンによる恐怖政治の実態などが明るみになるはるか前に書かれたことは先見の明というよりほかはないが、それはとりあえず置いておこう。

 同じ構図を、第二次天安門事件後の中国に当てはめてみるとどうなるだろうか。自国軍による市民の大量殺戮という最悪の事態と、それをもたらした「悪しき政治」が行われた後、思想は、そして文学はどのように可能なのか。これまで世界中で、天安門事件を告発するおびただしい言葉が紡がれてきたし、これからも紡がれていくだろう。しかしそれらのほとんどは「失せたる一匹」を悪しき政治によって傷ついた八十匹、九十匹の中に求めうろついてきた、のではないだろうか。
 ここまで来て、僕が何がいいたいのか、もうお分かりだろう。この『八九六四』がこれまで書かれた天安門事件についてのルポルタージュと比べても際立っているのは、事件における「失せたる一匹」の実像を、現在の中国社会に生きる「九十九匹」との対比において、「その外側にしか存在しない」ものとして描き切っている、という点に尽きる。

 この作品において、「九十九匹のための政治」と「一匹のための文学」との対比は鮮やかだ。この本に登場するインタビュイーのうち、「仮名」で登場する、すなわち事件の「挫折」を経た後、中国社会でそれなりの地位を築いた人々は、九十九匹の民衆に経済的に豊かな生活を保障した、事件後の中国の経済発展を何らかの形で肯定的にとらえている。その中の一人が語る次の言葉がすべてを物語っているだろう。

 「中国は変わったということなのさ。天安門事件のときにみんなが本当に欲しがったものは、当時の想像をずっと上回るレベルで実現されてしまった。他にどこの国のどの政権が、たった二十五年間でこれだけの発展を導けると思う?だから、今の中国では決して学生運動なんか起きない。それが僕の答えだ。」

 だが一方で安田は、「九十九匹を救う政治」では決して救われえない、「失せたる一匹」たる人々のことを丹念に救い上げることを忘れない。ここで重要なのは、ここでいう「失せたる一匹」とは、王丹やウアルカイシウルケシュ)、あるいは石平といった現在においても海外から中国の政治体制を批判し続けている人々のことではない、ということだ。むしろインターネットで中国社会の「真実」に目覚め、民主化運動の熱心な支持者になったマー運転手や、やはりネットでの政府批判が当局に目をつけられ、亡命先のタイでも拘束され、強制送還の末現在も消息不明の姜野飛、といった「待たざる者たち」あるいは頑固で融通の利かない「生真面目な抵抗者」である王戴、といった無名の人々こそが、本書で描かれた「失せたる一匹」に他ならない。中国問題を語るライターとして安田が信頼できるのは、「九十九匹」の声を代弁する人々に対し、王丹のような著名人ではなく、こういった無名の人々を対峙させようとするところにある。

 安田は、この本の冒頭で、事件の当事者の声を借りながら、毎年6月になると繰り返される「天安門事件をめぐる語り」および、そこに流れる「民主主義は正しい。民主化運動をつぶすのは悪い」という論調にはいささかうんざりする、とはっきり述べている。
 安田の言うように、それらの繰り返される「語り」は、たとえ当事者個人に焦点を当てたものであったとしても、おしなべて中国共産党の「悪しき政治」を告発し、それが変化することを望むものだといっていいだろう。しかし、実は姿勢こそが、現実の中国社会において九十九匹の外側にしか存在しない、真の「失せたる一匹」を見落とすことにつながっているのではないか。繰り返される「語り」が人々を「うんざりさせ」、中国のそして香港の若者たちの関心を遠ざけてしまうのは、そういったどうしようもない鈍感さのゆえではないのか。
 事件の真相解明が全く進んでいない現状において、「悪しき政治」への批判や告発のメッセージを回避しつつ、事件について語ろうとすることには危険性も伴う。少なくとも、中国の民主化を望む多くの人々にとってその姿勢は受け入れ難いものだろう。しかし、現実に存在する「失せたる一匹」を救おうとするなら、同時に「九十九匹の国民はもはや民主化運動を望んでいない」という事実に向き合うしかないのではないか。これが、僕が本書から受けとったメッセージだ、

 もちろん、天安門事件や中国社会をめぐる現実は、以上のような図式的な整理では描き切れないものがあることも忘れてはならない。例えば、僕はこの文章で安田の天安門事件に対するスタンスを、戦後社会における福田恆存の言論になぞらえて評価した。しかし、両者には決定的な違いがある。それは、福田があくまで自国の問題として「九十九匹を救う政治」と「失せたる一匹を救う文学」の緊張関係に対峙したのに対し、安田の著作は、いかに当事者の声を丹念に拾い上げているといっても、外国人によるルポルタージュ、という限界―どうやっても内在的な批評性を持ちえない―を逃れられないところにある。
 そもそも現代中国では、たとえ政権による民主化運動の鎮圧を肯定する、という形であっても天安門事件について語ることは許されていない。その意味では、現在の中国社会において「失せたる一匹を救う文学」をめぐる状況は戦後日本よりもはるかに絶望的である。そのことを踏まえた上で、安田のような外国人によってこのようなルポルタージュが書かれた、ということの意味を改めて考え直す必要があるだろう。

 ・・以上のような問題も含めて、本書は天安門事件について、現代中国について考えようとするものが避けては通れない重たい問いを突き付けている。その意味では本書が中国語に訳され、中国圏の人々に広く読まれることの意味は小さくないと思うのだが、上記のツイートを見る限り、残念ながらその可能性は今のところほとんどなさそうだ。
 もちろん、そのことは本書が日本語という障壁に守られているからこそ、ラジカルな問題提起ができたこと、そして著者がノンフィクションライターという不安定な立場に置かれていることを考えると、やむを得ないことなのかもしれない。そうであるなら、例えば日本のアカデミズムに籍を置く者たちが、本書の問題提起を真摯に受け止めたうえで、中国社会の民主化をめぐる「うんざりする」言論状況にささやかであっても一石を投じていくべきなのではないだろうか。少なくとも僕は、著者によって投げかけられたボールを自分なりにしっかりと受け止めたつもりだ。