梶ピエールのブログ

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高橋伸夫『党と農民―中国農民革命の再検討』

 これは、1930年代の、福建省南部および湖北・湖南・安徽における共産党根拠地における党活動の記録をひたすら丹念に読み込んでいくという、非常な地味な専門書だ。しかしそこから浮かび上がってくる当時の「党と農民」との関係は、現代の中国と共産党の関係を考える上でも、とても刺激的で興味深いものだった。

 初期の中国共産党が農村を支持基盤として勢力を拡大してきたことに疑問を投げかける者はいない。しかし、一般的には伝統に縛られ、新しい考えに保守的であるはずの農村においてなぜそのような勢力拡大が可能になったのか。もちろん、中国共産党の公式見解とは、高邁な理想に燃えた共産党員は常に規律正しく、貧しい農民の立場に立って悪い地主達を懲らしめ、貧農達に土地を分け与え、匪賊たちから村を守った。このような清廉さと公正さのため広く農民達の支持を得ることができた、というものである。しかし、現在では、共産党が勢力を拡大する過程でかなり陰惨な暴力的粛清が行われていたことも明らかになっている。このため、張=ハリディの『マオ』などでは、毛沢東の指令の下、徹底した恐怖政治により農民を脅しあげて無理やり味方につかせたのだ、という解釈が語られる。

 『マオ』の解釈はもちろん党の公式見解と真っ向から対立するものである。しかし、じつはこの解釈も、「共産党の一枚岩の規律」および「党員対農民という二項対立的な図式」を少しも疑っていないという点では、党の公式見解と見事に一致しているのだ。

 それに対し、高橋氏のこの著作では(もちろん先行の党史研究の成果を踏まえてのことだが)、公式見解などで前提とされていた「共産党は一枚岩の組織だった」「農村では「党員対農民」という構図が成立していた」という点に関する徹底した疑いが出発点になっている。その結果描き出された、1930年代の農村における共産党像とは、「一枚岩」というイメージとは程遠く、むしろ伝統的な農村秩序と一体化した、「何でもあり」の「烏合の衆」といったほうがふさわしいような集団であった。

 たとえば、本来の共産党はあくまでロクに自分の土地も持たないような貧農たちの味方であり、地主や富農は打倒すべき階級敵であったはずだ。しかし実際には多くの農村における共産党への入党者には、敵であるはずの地主や富農がかなりの程度含まれており、しかもしばしば組織の中心的な位置をしめていたという。彼らは、共産党が地域における優位を確立したとみるや、むしろ内部に入り込んで身の安全を図るとともに、相対的に恵まれた待遇を享受できるようさまざまな画策をしたものと考えられる。このため、本来は持たざるもののためであったはずの土地改革において、むしろ入党した地主・富農が受益者となることも珍しくなかったという。

 共産党の方も、宿敵である国民党と対峙し勢力拡大を図る上ではなりふり構っていられなかった。このため入党にあたっての条件はもとより、脱党などに対する制裁もかなり甘くせざるを得なかった。このため、ひとたび共産党が劣勢と見るや手のひらを返したように冷淡な態度を見せたり、紅軍に入隊したものの逃走して元の村に帰ったり、極端に言えば「出入り自由」な状況さえ生まれていたらしい。

 このような状況の下で、農村における共産党組織は限りなく「土着化」した性格を帯びた。それはお世辞にも、階級闘争などの高邁な理想に駆りたてられた一枚岩の組織などではなかった。むしろ、一時的であれ地域に(国民党よりもマシな)秩序をもたらしてくれる「勝ち馬」に乗ろうと、有象無象が「投機的に押し寄せた」結果ふくれあがった寄せ集め集団に近かった。そこでは、社会主義の用語を村の伝統的な言葉に置き換えて、既存の道徳や秩序を維持していこうとする試みの方が目立ったのである。前述のような暴力的な粛清の頻発も、あまりに「なんでもあり」の状況が生じたため暴力を使って「締める」必要に駆られたという指導部側の事情のほかに、「階級闘争」という名目を利用して日ごろの恨みや鬱憤を晴らそうという農民側の事情が働いたものと考えれば、十分整合的に理解可能である。

 このように、本書が描き出す1930年代の中国共産党像は、農村における「革命」以前とそれ以後の「断絶性」に疑問を投げかけるものといってよい。この意味で党の公式見解や『マオ』が、いずれも(それがユートピアデストピアかという違いはあるにせよ)それ以前の「伝統的な農村」との完全な「断絶」を強調するのとは対照的だ。また、本書には毛沢東をはじめとして著名な指導者の思想や言動がほとんど登場しないのも特徴的である。これは本書の主要な関心があくまでも「大きな社会変革の時代にあって、普通の人々はどのように考え行動しただろうか?」という点にあるからだと思われる。そこに基底として流れているのは「(普通の)人間の行動様式は、ちょっとやそっとでは変わらない」というある意味シニカルな人間観といっていいだろう。そして、これまた皮肉なことに、そのようなシニカルな人間観・共産党観こそ、それこそ「何でもあり」になってしまった現在の共産党政権が、これだけ内部に矛盾を抱えながらなぜビクともせず存続していられるのか、ということに最も納得のいく説明をあたえるようにも思えるのである。