梶ピエールのブログ

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メモ

柄谷行人氏によるネグリ=ハート『マルチチュード』の書評

ネグリとハートは、マルクスのいうプロレタリアートは労働者階級のように限定されたものではなく、マルチチュードにほかならないという。初期マルクスの考えは確かにそのようなものだ。その意味では、本書は『共産党宣言』(一八四八年)を現代の文脈に取り戻そうとする試みといえる。すなわち、帝国(資本)対マルチチュードプロレタリアート)の世界的決戦。
しかし、このような二元性は、諸国家の自立性を捨象する時にのみ想定される。こうした観点は神話的な喚起力をもち、実際、それは六〇年代には人々を動かしたのである。とはいえ、私は、このような疎外論的=神話的な思考をとるかぎり、一時的に情念をかき立てたとしても、不毛な結果しかもたらさないと考える。グローバル資本主義(帝国)がどれほど深化しても、国家やネーションは消滅しない。それらは、資本とは別の原理によって存在するのだから。

結構、まともなことを言っている気が。

和みモード。

 一時はどうなるかと思われたWTO閣僚会議での韓国農民による過激なデモ。今日の香港紙(『明報』)の報道を見る限り、約1000人が連行された大荒れの一夜が明けた会議閉幕の一日は、「韓国農民数百人が会議場に向かって'We love Hong Kong'あるいは下手くそな広東語で「ごめんなさい」と叫んだ」とか、「会議終了後は農民たちと警備員が一緒になってダンスを踊る場面もあった(写真)」とか、なんというかすっかり和みモード。香港市民の中からは「韓国の農民たちってカワイイ」「宮崎駿のアニメのキャラみたい(??)」などという声も聞かれる始末。香港市民よ、本当にそれでいいのか?奴らをそんなに甘やかして!調子に乗って絶対「次」も大暴れするぞ?まあ、「次」は香港でやるわけではないからどうでもいいのかもしれないが。
 ・・とはいえ実を言うと僕もこの人たちのことはどうしても嫌いになれなかったりする(もちろん、暴力行為は支持しないが)。というか頼むからこの決して賢明ではないが人間味にあふれる人々を「マルチチュード」などというバタ臭くて粗雑な概念で一くくりにしないでないで欲しいのだが・・