梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

Joseph E. Stiglitz=Andrew Charlton, 'Fair Trade for All: How Trade Can Promote Development' ISBN:0199290903

  収穫された豆から緑の双葉が伸びている「いかにも地球に優しそうな」表紙(前日のエントリ参照)。最初書店でこの本を見かけたとき、スティグリッツと「フェア・トレード」という意外な組み合わせに興味を引かれた反面、「生産者と直接結びついた取引をして、おいしいコーヒーやワインを飲みましょう」なんてことが書かれていたらどうしようかと思った。が、それは全くの杞憂で、この本の内容は「流通業者による中間搾取を排して生産者と直接結びつこう」という社会運動としてのフェアトレードとは全く関係ない。よく考えればあのスティグリッツがそのような本を出すわけがないのである。

 というわけで基本的には『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』ISBN:4198615195いい内容だが、前著が主に通貨危機に陥った国に対するIMFの経済介入に対する批判が主なものだったのに対して、今回の焦点はWTOに当てられている。
 WTOというと、1999年のシアトルでの閣僚会議以来、すっかり各国から集まった反グローバリズム運動の活動の場となってしまった感がある。昨年末の香港の会議での、韓国農民の警官隊との衝突は記憶に新しい。このような反グローバリズムの動きに対する反応としては、例えばネグリ=ハートの「マルチチュード」論に典型的なように、新しい可能性を生み出すものとして大きな期待をかけるか、あるいは自由貿易の原則を理解しないばかげたものであると位置づけるか、どちらかに偏りがちだったと思う。しかし、スティグリッツらの姿勢はそのどちらとも異なる。

 基本的に自由貿易は貧しい国にとっても利益をもたらすものだ、という点から出発しながら、しかし現実のグローバル化の歴史を見れば必ずしもそうなっていない、いや、一部の途上国の状況はここ十数年ほどのグローバル化の進展によってむしろ悪化してきたことを指摘し、そこから脱却するためにより「フェア」なルール作りの必要性が説かれる。その意味ではバグワッティの『グローバリゼーションを擁護する』ISBN:4532351405 とも同じ立場であるといってよい。が、本書では途上国が直面する具体的な問題についてより立ち入って論じている。
 なぜこれまで自由貿易が貧しい途上国に利益をもたらさなかったのか。一言で言えば、自由貿易体制において圧倒的発言力を持つ先進国により自由貿易体制がゆがめられ、途上国に過度の負担を強いてきたからだ。「自国農業の保護」という名目から、途上国の主要輸出物である一次産品への比較的高い関税率が容認される一方、途上国からの非熟練労働力の受け入れにはほとんど注意が払われず、そのかわり知的財産権や海外投資家の権利の保護といった先進国の企業に利害に関わる問題ばかりが優先的に議論され続けた。その結果、途上国間ではWTOのルールに対する不信感が広がり、途上国にとって先進国との貿易と同じくらい大きなウェートを占める途上国間の貿易では関税を引き下げたり貿易規模を拡大する努力がほとんどなされなかった。これでは、途上国が自由貿易による利益を得られなくても当たり前だ。

 これに対して、本書の基本的なメッセージは、自由な貿易はそれを支える公正なルール作りによって初めて可能になるのであり、そのフェアな合意の形成のために途上国・先進国が一緒になって知恵を絞るべきだ。その時特に重要なのが先進国の側からの大きな歩み寄りである、というものだといっていいだろう。
 
 この、「自由な貿易体制の維持のためにはむしろ各国政府の積極的な協調や介入が必要とされる」という考えは、取引における「情報の不完全性」を重視するスティグリッツが取り組んできた理論的成果にもとずく。この理論的な側面がまとめられた部分は、最新の理論や実証研究の成果に基づいたもので、非常に中身が濃く勉強になる。特に本書で強調されるのは、貿易の自由化に伴う「調整のコスト」とそのための補償の必要性だ。貿易が自由化されることによって、国内の財の相対価格および部門間の利潤率は大きく変化する。部門間の労働力移動がスムースにいかなければ失業率も増加するだろう。貿易自由化は、そういった「調整コスト」により損失を受ける部門や経済主体に対して、貿易の受益者や政府がどのような形で補償を行うかを検討しながら慎重に進めていく必要がある。
 また、この本のもう一つ特筆すべき点は、これまでのWTOの実際のアジェンダや取り決めが、具体的にどのような点で途上国にとって不利益だったのか、またよりフェアな取り決めがなされるにはどのような努力をすればよいのか、といった点が豊富なデータに基づき詳細に述べられていることだ。この点は共著者で国連やOECDエコノミストでもあるCharlton氏(London School of Economics)の貢献が大きいだろう。

 確かに現実のグローバリズムの進行は、世界中の富の偏在から来る歪みをますます拡大しているように見え、そのことが、対抗策としての「マルチチュードのネットワークに期待しよう」とか「ドル帝国に対抗するためにアジア共通通貨を創ろう」といった一見もっともらしい(しかし現実性に乏しい)考えが脚光をあびる原因となっている。
 しかし結局のところ、現実を変える可能性は、本書にみられるようなグローバルな貿易体制に対する正攻法の批判が、各国に受け入れられるかどうかにかかっているだろう。