こちらに来てから論文を中心に勤めて英文を読むようにしているので、全体的な読書量はめっきり落ちているのだが、たまには経済関係以外のものも読んでみようと、出発前にあまり深く考えずに持ってきていたこの本を手に取ったら、たまたま今考えていることと重なる点が多くてなかなか面白く読んだ。
外交のずぶの素人としては、中国問題にも造詣の深い著者ならではの日・中・米間の微妙な外交バランスに関する記述には示唆される点が多かった。また中曽根外交は吉田外交の正統的な後継者としてみなすべきだ、といった指摘も非常に興味深かった。もっとも、戦後の日本外交の「よい点」を一貫して褒めようとする一方で、例えば沖縄基地問題などの戦後日本外交によってもたらされたと考えられるさまざまな矛盾点を(当事者による評価に一言も触れることなく!)あまりに簡単にスルーしてしまう本書の姿勢には、違和感がないわけではない(というか大いにある)。しかし、そういった点については、ある方の表現を借りれば「感想を書くには目下こちらの知識と能力が不足している」ので、とりあえず置いておくことにして、ここでは特に中国に関する記述で興味深かった箇所を抜き出しておきたい。
(日本は今後の対中戦略として、中国の市民社会への働きかけを重要な柱にすべきだ、という主張に続いて)現在筆者は、日本のある財団が北京大学の大学院生に奨学金を支給し、その奨学生を日本に招いて日本の大学教授による修士論文の指導を行うプロジェクトに関わっている。最近北京大学において、北京大学の教授と共にその奨学生の選考を行ったことがあった。その際に北京大学側が選考試験問題として準備したのは、法律の裏づけのない自由から真の民主主義は生まれないという主旨を論じた、「法律、自由、民主主義」と題する英文の論考であった。
中国の最高学府での教育の実体は、ここまで進んでいる。
少しでも中国の学術事情について知っているものにとっては、これは特に驚くべきことではない。法学関係者についてはよく知らないが、北京あたりの経済学者の間では中国の更なる発展のためには社会の財産権の保護を中心とした法の支配、および社会経済の一層の自由化が必要だ、というのはすでに一般的な認識になっているといっていい。例えばその自由主義的な発言から「中国のハイエク」とも呼ばれているという中国社会科学院の劉軍寧氏のウェブサイトhttp://anthor.comment-cn.net/liujunning.php(中国語)には「なぜ民主は自由を必要とするのか?」「財産権は憲法の基盤である」などといったタイトルと共にノージックの『アナーキー、国家、ユートピア』に関する論考も見られる。
またこの間にも、UCBにvisiting scholarとしてきている北京大学の若手教授の講演を聴く機会があったのだが、そこでは、現在の中国では政府による市場介入がいかに経済効率性を損ねているかということ、それを打破するためには「法の支配」の実現が必要不可欠であること、またそれが真の「国家の繁栄」につながるものであること、ということが繰り返し力説されていた。
ここで注意しておきたいのは、こういった中国の市場主義的自由主義者の主張の根本には、そういった経済への国家の介入の排除、市場的競争原理の導入こそが今後の「中国の富強」をもたらすのだ、という強い認識があること、そしてそういった「国家(政府)の退場」の結果生じるであろう「負け組」、いや、そういった流行語で語るにははばかられるようなすでに経済発展から大きく取り残された人々に対する「分配」の問題は、とりあえず彼らの関心の外にあるらしい、ということだ。どうもこういった人々は、今後の中国がアメリカに伍していくような国になるには、まさにアメリカ社会のような「階級・階層の拡大と固定化」が生じるのはやむをえない、むしろ望ましくさえある、と本気で考えているようなのだ。僕はその若手教授の講演とその自信たっぷりの語り口を聴いて、それをほとんど確信したのだった。
アメリカに代表される大国に伍していくために「グローバルスタンダード」を導入し、政府の経済介入を排し、あらゆる局面で競争原理を導入し、・・というその主張は、まさに小泉首相の唱える構造改革路線そのものである。こうして、ある意味で竹中大臣などよりもはるかに自由主義的な、「市場(原理)主義的自由主義者かつナショナリストでもあるエリート知識人は、すでに北京を中心に無視できない勢力となりつつある。
もう一点、本書から示唆的だった点を。
・・米中和解を進めたニクソン=キッシンジャー外交がめざしたことは、封じ込め戦略に根本的修正を加え、大国が合理的に国益を追求する過程から生まれる勢力均衡を安定させることであった。中国の指導者は、そうした古典的な外交官を共有していた。のちにニクソンとキッシンジャーは、毛沢東や周恩来を、一国の指導者としてほとんど手放しで賞賛しているが、その源には中国の指導者が同じ言葉と概念で国際政治を語れることへの共感があった。
これとは極めて対照的に、ニクソンとキッシンジャーは、戦略論を語れない日本の政治指導者をほとんど軽蔑していた。
ここから汲み取るべきは、アメリカ外交が「親中的である」か「親日的」かということは実はその政権がリベラルか保守的か、ということとはほとんど関係ない要因により規定されている、ということではないだろうか。確かに現在のブッシュ政権は表面上は以前のクリントン政権よりかなり親日的かもしれないが、それはさまざまな国内外の政治状況によってたまたまそうなっているだけで、一部の保守系ブログとか某S経新聞のK森論説委員などが力説しているように、保守あるいは共和党政権だから親日的だということは(おそらく)本質的ではない。
たとえば、今はまだ時期尚早かもしれないが、上記で紹介したような市場主義的自由主義のイデオローグが政権の中枢でかなりの影響力を持つようになったとき、同じように「小さな政府」を唱えるアメリカの保守層と気脈を通じ、米中が共同で日本の市場主義的改革の「不徹底さ」を非難するというシナリオも、決して荒唐無稽ではないのだ。添谷氏の説くように日本はこれまで「ミドルパワー外交」によって成果を上げており、今後もそれを続けるのがベストであるかどうかということについては判断を保留したい。しかしいずれにせよ、米中といった大国の政策の本質を、その国の現時点での外交姿勢が日本にどれだけ近いか、という点だけで判断するのはかなり危険なのではないか、と思えてならない。