梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

アリとキリギリス

 Amazonの書評で山形浩生が例のスピヴァクの本を取り上げて批判して(というかひたすらけなして)いた。いやなんというか、実も蓋もないというか。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/cm/member-reviews/-/A187EW1SNGM2FV/249-1086003-7894768
 
 僕自身は彼ほど明確に割り切ってしまうことはできなくて、文学的な目で社会科学を批評するという試み自体は、それほど意味のないことでもないんじゃないか思う。でも、だからこそ、だったらもうちょっと批評する対象のことをちゃんと勉強しろよ、って思う。
 まあ僕は文学研究のことは何もわからないので、この本の文学論に関するところはすっ飛ばすしかなかったし、誰かさんのように知ったかぶりして批判しようとも思わない。ただスピヴァク自身が地域研究というか社会科学全般の方法論とその主要な成果について(たぶん理論物理学に対するのと同じくらい)あまりに無知なのは丸わかりで、そこで「文学研究と地域研究を融合させましょう」、といわれたって、ちょっとお話になりませんというのが正直な感想。


 でも、この人は現在ほとんどカルチュラルスタディズの教祖みたいに祭り上げられている人だと思うけど(たぶんそれが彼女が女性でインド人であることと無関係ではないだろう)、単なる彼女の取り巻き連中とは違ってさすが、と思えるところが一つだけある。それは彼女が「今のカルスタって全然ダメだよ」っていうことをはっきりと気づいているところだ。それは、例えば以下のような箇所をよくみればよくわかる。

地域研究は権力政治と結びついており、研究対象となる諸国の権力エリートとの結びつきはいまなお強力である。また、概して社会科学的フィールドワークのために必要な程度に限られているものの、言語習得の質は総じて非常にすぐれている。さらにいえば、データ処理の仕方は洗練されており、網羅的で、しかも徹底している。かたや、国単位の個別言語学科の急進的な主流逸脱者として誕生した、メトロポリスの一現象である、アカデミックな「カルチュラル・スタディーズ」には、これに対抗しようにも、メトロポリスの言語に基礎を置いた、現在主義的で、個人主義的な政治的信条以上のものがない。そして、そこから出てくる結論も、しばしば、見えすいた、ありきたりのものであって、どれほどがんばってみたところで、地域研究が暗に秘めている政治的狡智にはとても太刀打ちできるものではない。

 要するに彼女は、こう言っているのだ。われわれはこれまで第三世界サバルタンの立場で語ることは可能か、とかいろいろ言ってきたけど、結局は英米の大都市のサロン的な雰囲気のもとで展開される高尚な文学談義の域を一歩も出てなくて、第三世界の言語を習得してそのテクストを発掘しようとしたり、そのフィールドに足を踏み入れて人々の「語り」にじかに耳を傾けたり、といったことをほとんどしてきてこなかった。そのため、結局自分たちの仲間うち以外では通じないような議論しか展開できていなかったんじゃないか。そういう意味では、今まではアメリカの覇権主義と資本主義の尖兵でしかなかったかもしれないけどしっかり現地言語を学んでフィールドに足をはこびせっせと「厳密さ」な学問的成果を発表してきた地域研究の「勤勉さ」「自ら手を動かそうという姿勢」を見習うべきなんじゃないか、と。いわば頭でっかちで汗をかくのが嫌いだったカルスタの人が、頭悪そうだけど勤勉で実直な地域研究者の仕事振りをみて、自分達は結局キリギリスにしかすぎないんじゃないか、冬が来たら飢え死にしちゃうんじゃないか、ということにようやく気が付いた、という構図ですな。

 それにしてもどうしようもないのが村上陽一郎。この本をどう読んだらあんたが言うようなカルスタ礼賛本になるんだよ。
 スピヴァク自身、それほど重要な思想家でもなんでもないというのが僕の判断だが、でも村上よりずっとましなのは現実を批判するのに思想的に絶対的な立場などない、ということをよく知っているところだ。カルスタは確かに権威主義的な、冷戦構造の下で発展した既存の学問体系に対抗するために生まれたかもしれない。しかしカルスタがアカデミズムの中で次第に地位を獲得するにつれ、それは確実に一種の権威となっていく。そしてやがては自分達の間尺に合わない学問や研究手法を「欧米中心主義」とか何とか理屈をつけて排除しようとする、そんな抑圧装置と化していくのだ。それこそかつてマルクス主義がたどってきた道ではないか。スピヴァクはたぶんそのことをよくわかっていて、一種の危機意識からこの本を書いたのだ。一方それを読んで能天気にカルスタ礼賛の書評を書いたのがこの日本を代表する「著名な科学史家」、というわけだ。ああ、情けないというかなんと言うか。

 で、もっと情けないのは、日本の知的状況の中でこういう人が決して一人だけじゃないことなんだよな。