梶ピエールのブログ

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あきれた書評

 6月26日付『毎日新聞』に掲載された村上陽一郎によるG.C.スピヴァクの『ある学問の死−−惑星思考の比較文学へ』の書評。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/dokusho/news/20040627ddm015070152000c.html


評者は著名な科学史家だが、なんと言うか、専門外のことについて知ったかぶりでいい加減なことを書くのもたいがいにして欲しい。

 「地域研究」というのは今でも一般には馴染みのない言葉かもしれません。ある地域を、ジャンルを限らずに、つまり政治、歴史、文化などに分けずに、包括的、横断的に研究しようとする、そういう領域です。
(中略)
 本書の一つの基礎は、そうした領域が出現した契機が、冷戦という社会的な状況にあったという認識にあります。
(中略)
そのことは、地域研究が、世界の諸地域を対象とするにしても、常に「欧米」という枠組みを明に暗に柱としていたことに繋(つな)がります。
(中略)
 確かに、この分野(注:比較文学研究のこと)は、政治制度や産業構造などを比較するときほど露骨な欧米至上主義にはならなかったでしょうし、また「欧米」以外の地域の文学を単なるエキゾティズム(異国趣味)としてのみ扱う、というような単純な理解、もしくは無理解からは免れていたかもしれない、しかし、根本のところはそうであったのではないか。

 一体この人は「政治制度や産業構造などを比較した」ような「地域研究」の専門書を一冊でも読んだことがあるのだろうか。何を根拠にそういった研究が「露骨な欧米至上主義」に陥っている、というようなことがいえるのだろうか。そもそも「露骨な欧米至上主義」とは具体的にどんな思考をさしているのか。もちろん、社会科学そのものが欧米で洗練された学問の手法である以上、欧米的なものの見方を完全に払拭することは不可能であるに違いない。しかし、社会科学のディシプリンにのっとってまともな地域研究をやっている人なら、自らの視点に欧米的な偏りがあるかどうかについて多少なりとも自覚的であるはずだし、ましてや自分の研究が「露骨な欧米至上主義」に陥ることをよしとする人などいるはずもない。

 村上氏は、「カルチュラルスタディ」に、そのような「(実態不明の)欧米至上主義」に陥ることから免れている学問の方法として特権的な地位を与えておられるようだが、いったいどうしたらそんな楽観的なことがいえるのだろうか。彼は「カルチュラルスタディ」や「ポストコロニアリズム」は欧米的なものの見方から全く影響を受けていない思想だと本気で信じているのだろうか。

 スピヴァク自身はさすがにこれほどまでにノー天気かつ電波なことは言っていないと思うのだが、なにせ現物のほうを読んでいないので、とりあえずノーコメント。