梶ピエールのブログ

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功利主義+テクノロジー、市民社会、現代中国

 『週刊読書人』11月2日号の綿野恵太氏によるコラム「論潮」で、拙著『中国経済講義』ならびに「『リベラル』な天皇主義者はアジア的復古の夢を見るか?」(『現代中国研究』第40号)が言及されています。特に後者については、「功利主義+テクノロジー」による統治に関する批判的議論の導入として、かなり突っ込んだ取り上げられ方がされています。

功利主義の世紀 進化論と認知科学から導かれる統治

「アリババやテンセント、ファーウェイと言った民営企業の台頭、それに自転車や配車アプリなどのシェアリングエコノミーの広がりは、人々の私利私欲を満足させる、つまり功利主義的な価値観を全面的に肯定すると同時に、法やイデオロギーに裏付けられない、テクノロジーに裏付けられたアーキテクチャーによって「環境管理型権力」の洗練に一役買っている。〔…〕おそらく今後の中国社会では、知識人がどのような議論を展開しようとも、あるいは共産党が「表の」支配イデオロギーとして社会主義思想の徹底を打ち出そうとも、「私利私欲」に基づく功利主義的なリベラリズムが人々の「本音」を反映しつつ、いわば「裏の」支配的イデオロギーとなっていくだろう」(「リベラルな天皇主義者はアジア的復古の夢を見るか?」『現代中国研究』40号)

ここで橘が「功利主義を過激化させたサイバーリバタリアン」が「「リベラルデモクラシー」を否定するユートピア思想のなかで唯一、今後大きな影響力をもつと思われる」と指摘していたことも付け加えておこう。功利主義は「リベラル」に親和性があるが、必ずしも一致するわけではないのだ。かといって中国の独裁も完全に統制しているわけではない。せいぜい互いにうまく利用しているのが現状のようだ。

 
 拙著『日本と中国、「脱近代」の誘惑―アジア的なものを再考する―』に対する緒形康氏の批判への応答としてかかれた拙稿「『リベラル』な天皇主義者はアジア的復古の夢を見るか?」をお読みいただければお分かりのように、私はこの功利主義とテクノロジーによる統治の問題を日中における「市民社会」の困難性、という問題意識と結び付けて論じています。同様の論点を中国の現状を踏まえてより掘り下げたものとして、先日行われた社会思想史学会第43回大会の共通論題で「アーキテクチャによる統治と東アジアの市民社会−現代中国からの視点−」と題した報告を行いました。以下に、そのときのスライド(いずれ文章化する予定)を公開しますので、よろしければご覧ください。

「アーキテクチャによる統治と東アジアの市民社会−現代中国からの視点−」(社会思想史学会第43回大会レジュメ)