- 作者: 安田浩一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/04/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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講談社『g2』で連載中からなにかと話題になっていたこの本については、これから活字メディア、ネット上を問わず多くの言及がなされていくことと思う。僕にとっては、なによりも拙著『「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか』、特に第11章「村上春樹から現代中国を考える」で展開した問題意識に、あまりにドンピシャと響く内容だったので、とりあえず直接関連する記述を以下に引用しておきたい。
たとえば、2005年当時の激しい反日デモやサッカースタジアムにおける「小日本」や「シャービー(=女性器を意味するスラング)日本」の大合唱の映像をニュースでみて「いやな感じ」を覚え、それ以来「中国が嫌いになった」日本人は少なくないはずだ。しかし、たとえば激しい反日デモの光景を映像で見せられたときに、なぜ「いやな感じ」がしたのか、その理由を明確に言語化する試みが十分になされてきただろうか? 一部の右派メディアにおいて盛んに見られたように、それは中国が日本に危害を与える脅威であることを示すものだから、という説明は明らかに十分ではない。そのような具体的な「危害」や「脅威」の可能性をまったく信じない筆者のような人間でも、やはりその光景には「いやな感じ」を抱いたからだ。
そしてマスメディアの多くは、そういった現象が映像として流れるたびに、「言論の自由のない国だから」「江沢民が反日教育を行ったから」「権力闘争がその背景にある」といった「あちら側の論理」を見出し、私たちの目に入ってくる不快な現象を、それによって無理やり処理しようとしたのではないだろうか。もちろん、そういった不快な現象は「中国のほんの一部で起きているにすぎない」として相対化しようと勤めた日本人も一定程度存在していた。しかしそういった相対化の試みは、結局のところそれらの不快な現象に対し「思わず目を背けた」、それにきちんと向き合うことを避けた、ということを意味するのではないだろうか?
しかし、実際にはその「いやな感じ」をもたしていたのは、村上がいうように「こちら側」と「合わせ鏡」的な関係にあるものだったのかもしれない。日本社会において醸成された中国への「いやな感じ」は、2005年の反日デモの後も、ラサやウルムチでの騒乱の後の民族間の対立、あるいはその後の西側先進国からの「人権思想の押し付け」に対するナショナリスティックな反発、さらには尖閣諸島の領有権をめぐる中国政府の対応まで、形を変えながら再生産され続けた。それらの出来事が私たちにとって「いやな感じ」、言い換えれば「目を背けたくなる一方で、気になって仕方がない」感覚を呼び起こした理由をあえて単純にまとめるなら、それらが「集団になって異質なものを排除する」姿であり、しかもその行為が私たちにとってまさに「他人事」ではないから、なのではないだろうか。外国人の排斥を訴えて差別的かつ暴力的な言動を行うことで知られる「在特会」などの排外主義的な集団のグロテスクな姿は、その他人事ではない「いやな感じ」が、まさに最悪の形で日本の社会における現実になりつつあることを示しているように思われる。
安田氏の本において、この「いやな感じ」に必ずしも明確なロジックが与えられたわけではない。むしろ、本書は徹底的にあちら側の素顔に迫ることで、「いやな感じ」をもたらす暗黙の構図に風穴を開けようとした仕事だといっていいだろう。個人的には、そういった作業は今後の東アジアにおいて「最悪の状態」を回避するために、ジャーナリズムに限らずアカデミズムや政治の分野において最も重要な意味を持ってくると思う。そのような貴重な仕事を、文字通り体を張って行った安田氏に、心から敬意を表したい。