梶ピエールのブログ

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出張中に読んだ本(下)+いただきもの

 
 この本の編集を担当されたちくま新書の橋本さんからお贈りいただきました。実は、この本は中国出張前に買って読んで感銘を受け、感想を書こうと思っているうちにもう一冊送ってもらったという次第です。書くのが遅くなってすみません・・

さて、本書表紙には以下のような本文の一説が引用されています。「差別をなくす過程で、部落をなくすのか、それとも残すのかという課題を、私たちは整理できていないのである。現在起きている様々な問題は、この部落解放運動が抱える根本的矛盾から発生している、と私は考える」ここに、この本のエッセンスともいうべき、根本的なメッセージが込められているように思います。わたしは、このような問題意識をもって被差別部落問題(以下「部落問題」)をわかりやすく、明快な言葉で論じた本が出版されたことは、非常に画期的だと思っています。
 なぜ、上記のような問題意識が画期的なのか。以下、少々まだるっこしいかもしれませんが、自分なりの言葉で言い換えてみたいと思います。

 部落問題について「よくわからない」という人も、それが江戸時代の前近代的身分制度に起因するものだ、ということは社会科の授業などで習って知っているはずです。つまり、部落差別そもそものが日本社会の「封建的遺制」にほかならないわけです。もちろん、差別には近代社会によって生み出されるものも存在しますが、部落差別のような前近代的な社会構造や心性に根差した差別は、理屈の上では社会が近代化してその前提が崩れるにつれ、次第に解消されていくはずです。たとえばヨーロッパ中世における賤民差別は、近代化によって「全世界が均質的な時間と空間によって貫かれているという一元的な世界像」が普及するにつれて消滅していったことは、故阿部謹也によってつとに強調されていました。

 しかし、日本の部落差別は、近代化以降どころか現代においても形を変えながら残り続けています。なぜなのでしょうか。ここで重要なのは、部落差別はまずもって差別する側が抱える「前近代性」によって引き起こされる問題だ、ということです。つまり差別するマジョリティの側に前近代的かつ非合理的な心性、言ってみれば呪術的な「迷信」に囚われがちな心性がなければ、部落差別は成立しないはずです。
 しかしここで奇妙な反転が起こります。繰り返しになりますが、部落差別において真に「前近代的」であるのは差別する側であるはずです。しかし、その「前近代性」を、差別者自身が自覚することは決してありません。むしろ、実際におこるのは差別者が「前近代性」のイメージを一方的に被差別者である部落民の側に張り付ける、ということです。本書でもしばしば強調されていることですが、同和バッシングなどが行われるとき、あるいは被差別部落を出自に持つ政治家がバッシングされるとき、「○○の闇」「○○な血脈」といった表現が非常に安直に使われるという現状があります。そこには、被差別部落とは「よくわからない」が「闇(=前近代)」の部分をもつ「こわいところ」であり、近代社会に生きる「われわれ」とは異質なものだ、という思考回路を見て取ることができます。注意すべきは、このような表現を行うとき、前近代的な心性にとらわれていたのは差別者の方だ、ということがきれいに忘れ去れられ、あたかも部落民の側が前近代性をとどめていることこそが問題なのだ、という認識の逆転が生じている点です。

 さらに問題を複雑にしているのは、上記のような部落差別にかんする理不尽な構図を前にして、自らに張り付けられた負の刻印を、むしろ積極的に引き受けよう、という姿勢を、部落民自らが選びとってきた歴史がある点です。それを象徴するのが、本書でも指摘されているように、全国水平社の創立と共に起草された宣言における「エタであることを誇りうる時が来たのだ」という表現なのだと私は考えています。これは、おしつけられた負のイメージをアイデンティティとして社会の偽善性を撃つ戦いのエネルギーにしようというもので、戦前の水平社から戦後の部落解放同盟に引き継がれがれていくものだと言っていいと思います。
 ただこのようなアイデンティティ・ポリティクスの先鋭化は、一面では市民社会との調和を難しくするものであり、実際にいろいろな衝突も生んできました。本書が説くような差別する者とされるものとの「中間部分」にある社会運動や組織が、なかなか形成されなかったことの一因も、ここにあるような気がします。
 さらに、このような反差別の運動が、70年代安保の挫折あたりを境にして「反米」「反近代」を前面に掲げた日本の(新)左翼運動と結びついたこともさらに事態をややこしくしました。例えば中学の時に私が接した教師たちは、ある時は部落問題の、ある時は障碍者問題の集会に私を誘い、ある時は小栗康平の映画『伽耶子のために』を見に行こうといったかと思うと、ある時は毛沢東の『矛盾論』と『実践論』を貸してくれるような人たちでした。実際、これらのトピックがあの時代のある種の―ありていに言えば学生運動崩れの―人々の中には、全く矛盾なくつながっていたのだと思います。しかし、今から考えるとこのような「セットメニュー」の提供は、かえって問題の本質的な理解の妨げになったとしか思えません。例えば、毛沢東ほど近代的な「人権」思想とは真逆の思想を唱え、実践した人もいないのですから。

 いずれにせよ、「近代化」を通じて前近代的な部落差別を解消しようとする限り「差別をなくすとともに部落もなくす」ことにならざるを得ないのですが、上に挙げたような理由から、部落解放運動の本流はその方向には進みませんでした。代わりに採られたのがアイデンティティのよりしろとして「部落を残し」、それと同時に戦後の近代社会の矛盾を、トータルに批判する、という路線でした。ただ、この路線が根本的な矛盾をはらむものだったことは、冒頭に引用した角岡さんの指摘の通りです。それは端的にいうと、政府による同和対策事業に代表される「近代化による差別解消」と、糾弾に代表されるアイデンティティ・ポリティクスに根差した、「近代化の欺瞞への批判」を、同時に目指すことに伴う矛盾だったのだと思います。

 その矛盾は、やがて迎えた同和対策基本法の期限切れという法的根拠を失うことで顕在化し、その後に吹き荒れる「同和利権」バッシングにつながります。こういったバッシングや、インターネット時代の新たな差別事件に対抗するためには、これまで部落解放運動が抱えてきた矛盾に根本的に向き合わなければならない、というのが角岡さんの一貫した問題意識なのだと私は理解しています。角岡さんの前著『ピストルと荊冠 〈被差別〉と〈暴力〉で大阪を背負った男・小西邦彦』は、戦後の部落解放運動を象徴する人物に焦点を当て、その生きざまを一面では共感をこめ、一面では乗り越える対象として批判的に描き切った作品でした。そして、「その先」に位置づけられるのが本書だといえでしょう。

 角岡さんはこの本において、ネット時代の新しい差別に対する対抗運動がどのようにあるべきなのか、明確に、しかもわかりやすく語っています。それを私なりの言葉でいえば、これまで部落解放運動が目指してきた精神を生かしつつ、それを市民社会と接合可能なものにするため、部落外の人々と協力しつつ「中間部分」を作り出していく、ということになるでしょうか。そのうえで、障害になるものは何なのか、何に対して徹底的に戦わなければならないのか、という点についても、本書は明確な方向性を打ち出しています。 たとえば、いくら「中間の領域」の創設を目指すといっても、マジョリティの側が部落差別を生み出す社会の「前近代性」に無自覚なままでは、事態はよくなるはずがありません。その意味で部落差別は解消済みという立場をとり、同和利権バッシングを主導していった日本共産党の姿勢は、部落差別を生み出したマジョリティの側の「前近代性」に全く触れない、という点において批判されなくてはなりません。同時に本書では、前近代的な「ムラ意識」に囚われて差別問題に新しい感性で取り組もうとする若者たちを抑圧する、部落解放同盟の幹部にも厳しい目が向けられます。

 さて、やや唐突に聞こえるかもしれませんが、私はこのような現代の部落問題が抱えている困難性は、現在の日本における「対中認識」の困難性とも決して無縁ではない、と考えています。私が中学生の時に受けた教育がそうだったように、「反米」「反近代」「反差別」「反原発」「アジアの民衆との連帯」といったセットメニューは、1970年代から80年代の前半くらいまで、ある程度人々を引き付ける力を持っていました。そのセットメニューの中に、マオイズムに代表される「社会主義中国への憧憬」も一定の位置を占めていた(70年代後半に文革批判の衝撃が研究者を襲いますが、それが一般に浸透していくには時間がかかりました)のです。
 しかし、そのようなセットメニューは天安門事件ベルリンの壁崩壊を経ることで、決定的に求心力を失っていきます。そのことは、今までセットメニューに依りかかりつつ、「近代社会の欺瞞」を撃っていた人々の欺瞞性が厳しく問われていくことを意味していました。そのような時代背景の下で、部落解放運動が袋小路に入り込んでいくのと、(反米、反近代的なイデオロギーと深いかかわりのあった)「日中友好」という言葉が魅力を失うことはかなりの程度並行して進んでいった、というのが私の実感です。この点に関してはまた機会を改めて詳しく論じたいと思いますが、その意味では、本書で角岡さんが提起した視点は、以上述べたような戦後日本の対中認識が落ち込んだ隘路への処方箋を考えるうえでも、大きな示唆を与えてくれるような気がします。