承前。
- 過剰投資のリバランスとその処方箋―清算主義かリフレか―
先ほど、「生産性の低い方から高い方へ生産要素を移動させることでTFPの上昇は十分見込める」と述べた。とはいっても、労働力の移動によってそれが実現できる今後は労働ではなく資本による調整が必要になってくるだろう。しかし資本は労働とは異なり生産性の低いところの資本を高いところに持ってきて使う、という訳にはいかない。せいぜい生産性の低いところに行われている投資を減らして、本当に必要な投資に資金が回るようにする、といったことしかできない。これが津上さんの著作でも強調されていた「過剰投資からのリバランス」である。
このことは、当然のことながら経済全体の投資が適正な水準まで抑制されることを必要とする。その際どの程度まで抑制するのが「適正」なのか、という点が問題だが、前述の三浦有史氏のレポートにあるように、日本その他の「中所得国の罠」を抜け出た国の例を見れば総資本形成がGDPの30〜35%の水準に収斂するのが妥当なところだと思う。これは、近年10%を超えていた資本総額の成長率が、6〜7%前後に落ち込まなければならない、ということを意味する。
問題は、こういった、果たしてハードランディング、あるいはそこまで行かなくても大きなGDPの減速を避けつつ行うことが出来るのか、という点だ。そのような大幅な減速が避けられない、というのが津上さんの立場だろう。たとえば津上さんは、近著『巨竜の苦闘』で、今後中国経済が本来とるべき「楽観シナリオ」をあげ、その中で投資のリバランスを行うために2015年から18年までの成長率を1〜3%に落とすべきだと主張している。
これは、一時的な不況によってそれまでにたまった「膿」を出す、具体的には生産性の低いプレイヤーには退場してもらうことではじめて活力が生まれるのだ、という典型的な清算主義の立場だと考えられる。このような主張は確かに一定の根拠を持っている。それは津上さんがブログのエントリでも強調されているように、現在の中国経済がすでに「バランスシート不況」あるいは「デット・デフレーション」に陥っている、という認識にかなり説得力があるからである。「デット・デフレーション」とは、不況と物価水準の下落によって資産価値および投資プロジェクトの収益性が徐々に下落し、民間企業の債務返済が次第に困難になるため、新規の投資を控えたり従業員をリストラしたり、あるいは流動性不足によって連鎖的な倒産が生じ、デフレ不況が泥沼化していくという、日本経済が長いデフレ時代を経験する中で知られるようになった言葉である。確かに、中国経済は一般物価水準はまだプラスでデフレには陥っていない(ただし、食料品とエネルギーを除いたコアインフレ率はすでにマイナスかも知れない)が、不動産価格の下落と投資プロジェクトの収益性低下は深刻化しているので、広い意味ではすでにデット・デフレーションの状態にあるといっていいかもしれない。
このような状態で、収益性が低く、バランスシートを悪化させている企業や金融機関はさっさと退場させて債務を整理させるべし、というのが清算主義で、金融緩和を行い物価水準を上昇させることで企業の実質的な債務負担を緩和させるべし、というのがいわゆるリフレ派の立場になる。・・とこう書けば、これが実は十数年前より、日本においてさんざん繰り返されてきた議論の中国版であることがわかるだろう。ちなみに過去の僕のブログを熱心に読んでいてくれた方(そう多くないだろうが)ならば、僕が後者の立場を支持することはわかっていただけるだろう。
もちろん、清算主義的な主張にも一理はある。投資のリバランスの「痛み」を和らげるために金融緩和を行えば当然のことながら投資が刺激され、「リバランス」にならない恐れがあるからだ。それよりも、多少の倒産やリストラが生じてもバランスシートの改善と投資率の低下を一気に進めたほうがよい、というのが津上さん(あるいはマイケル・ぺティス氏など)の考えだろう。しかしこのような清算主義は、適切な政策割り当ての観点からみると問題が多い。持続的な成長のための、経済の供給面の政策を考えれば投資のリバランスと金融などの構造改革を行うことは必須である。しかし、それは需要面でのショックを抑えるために、消費や輸出を刺激する政策(金融緩和や為替レートの引き下げ)と組み合わされる必要がある。清算主義的なやり方で急激に成長率が低下した場合、本来高い成長率を見込める民間企業から先に倒産に追い込まれたり、人的資源が有効に活用されなったりするため、かえって生産性が低下するからだ。金融緩和をすればまた過剰な投資が行われるのでは、というツッコミが来るかもしれない。だが、過去数年の過剰な投資はそのほとんどが政府の成長目標と、その際の需要の不足分を埋めるために(地方)政府主導で行われたものである。したがって、7%という成長の数値目標を掲げるのでなく、金融緩和という市場原理を用いた景気刺激策のみを行うなら、今までのように投資だけが突出して増大するという事態は避けられるはずだ。
- 望ましい政策の組み合わせとは?
以上のようなロジックから、今後の中国経済にとって望ましい政策の組み合わせとは、たとえば、供給面の効率性を改善するために投資のリバランスを行い、需要のショックを和らげるため3〜4%程度のインフレ率をターゲットにした金融緩和を行い、同時に名目為替レートの減価を容認する、というものになるだろう。また、『巨龍の苦闘』でも示唆されているが、融資平台関連の債務を地方債や国債の発行によって置き換えるという対応のもバランスシートの改善という点では有効だろう。これは日本の不況期によく議論された「公的資金投入による不良債権処理」に当たるものである。
もちろん、世界経済の状況によっても左右されるが、これらの消費と輸出を刺激する政策によって投資需要の落ち込み分はある程度カバーされるはずである。ただ、これまでの趨勢として国内消費がそう急速に伸びるとは思えないので、当面の頼みの綱は輸出だろう。AIIBやシルクロード基金などを通じたアジアのインフラ需要を埋める資本輸出も、為替レートの減価に比べれば格段にリスクは高いが、国内投資を減らして輸出を増やそうと下政策だという点では、基本的な方向性は同じ効果を目指したものと理解できる。
さらに、これも繰り返しになるが、過剰な資本蓄積がなされているということは、無駄な投資を減らしていけば、それ自体が生産性の向上につながる、という側面をもっている。例えば上述のように、現在GDPの50%前後ある固定資産投資比率を35%の水準まで10年程度かけて落としていくとしよう。そのためには、一時期年率20%近い数字を記録していた固定資産投資の伸びが年率5%前後にまで下がらなければならない(現在では年率12%程度)。通常であれば、これは供給面と需要面の双方でGDPの成長率を引き下げるはずだ。しかし、現在のように過剰投資が深刻な状況の下では、効率性の低い固定資産投資の伸び率が低下しても、供給能力にはほとんど影響を与えないと考えられる。このことは、需要の不足分さえカバーできれば、投資の貢献度の低下はそのままTFPの上昇分としてカウントされる、ということを意味する。この投資のリバランスによるTFPの「上げ底効果」を考えれば、共著の中で僕や丸川さんが採用した3.5%程度のTFP上昇率は十分に達成できると考えられる。言い換えれば、この仮定は、適正な水準まで投資の伸びが抑えられることとセットでなくてはならない、ということだ。
資本ストックの成長率が年6%ぐらいの水準が上記の条件を満たしたものだと考えられるので、前回のエントリに述べたように資本の生産弾力性が0.4程度の水準で推移するとすれば、資本の貢献分はおよそ2.5〜3%、それにTFP成長率と労働の減少分を加味した成長率(5.5〜6%)が中長期的に持続可能なものとなる。したがって、早晩その水準に到達するよう、金融緩和や為替レートの減価といった非清算主義的な政策と組み合わせながら誘導していくべきだ、というのが、中国経済の将来の成長に関する僕の予測とその背景、ということになる。ただ、それは世界経済の動向にも左右される。その意味では、この見方は「世界経済が好調なら2012年まで平均5.3%の成長がみこめる」という『巨竜の苦闘』であげられていた哈継銘氏の見解に近いかもしれない。
- 終わりに
最初のほうの「言い訳」で述べたように、僕は中国経済の成長率に関する具体的な予測値や、いつ米国経済を抜くのか(抜かないのか)と言った数字自体には大した意味はないと思っている。それよりも中国経済の現状に関する大まかな状況判断と今後の処方箋についてどのような考えをもつか、一定の根拠に基づいて議論を深めることの方がはるかに重要である。これまでの議論をまとめるなら、中国経済の状況判断に関する立場の違いは「投資依存のリバランス」が必要かどうか、という点に、処方箋については改革の実施について清算主義を取るかどうか、という点に集約されるかと思う。津上さん(およびマイケル・ぺティス氏など)は投資のリバランスが必要であり、かつ清算主義的な方法でそれを行うべきだ、という立場なのに対して、僕は投資のリバランスが必要だが、清算主義的な方法については、その必要はないと考えている。一方、丸川さんのこの点に関する立場は実はよく分らないのだが、投資のリバランスがそもそも必要ない、という立場になるのだろうか。ただし、工業部門の高いポテンシャルについては僕と丸川さんの認識は一致する。
このように整理したほうが、成長率予想が7%だから楽観、5%だから悲観、といった意味のない対立の構図ができるよりはずっと生産的な議論ができると思うが、どうだろうか。
さて、津上さんはブログ記事で、ご自分の言説が丸川さんによって「中国経済崩壊論」の一つだとされたことに強く抗議されている。丸川さんの書いた文章をよく読めば、典型的な「崩壊論」として批判されているのは故中嶋嶺雄氏であり、津上さんの議論への批判のトーンはそれとはかなり違うのだが、同じ枠の中でとりあげられている以上、不当なレッテル貼りだ、という抗議はもっともなものだと思う。この点については僕にも責任の一端があり、批判は甘んじて受けたいと思う。
ただ、僕が丸川さんの批判を「黙認(というと随分不遜な言い方になるが)」したことには理由がある。津上さんの議論については、すでに述べた清算主義的な立場のほかに、もう一つ違和感を抱いた点がある。それは、新著でも感じたことだが、「中国経済はアメリカ経済を抜けない」というわかりやすい結論がまず前提にあって、そこに合わせて議論が組み立てられている、という印象をどうしても受けてしまう点だ。このために、折角随所に重要な指摘が行われていながら、結果として議論がミスリードされてしまった点があるのではないだろうか(本を売るためには正しい戦略だったのかもしれないが)。
今回出した『日本と中国、「脱近代」の誘惑 ――アジア的なものを再考する (homo viator)』の第三章でも強調したことだが、現在の中国経済にはそれを観測するものに相反するイメージを与える「割り切れなさ」に満ちている。書き手によってちぐはぐな印象を受ける僕と丸川さんの共著に比べ、津上氏の一連の著作のほうが、統一された、わかりやすいイメージを与えるのは確かだろう。しかし、そのわかりやすさには落とし穴はないだろうか。少なくとも、圧倒的な影響力を持った津上さんの著作に対し、セカンドオピニオンを唱える専門家により異議が出され、論争を通じてもう少し問題点が掘り下げられることはあってしかるべきだ。そのために多少の「どつきあい」があっても止むをない、こう考えた次第だ。だから、今回津上さんが我々相互の見解の違いがどこにあるのかよりクリアになる形で丸川さんの批判に答えて(ケンカを買って)いただいたことには、僕が言うのも変かもしれないが、改めて感謝したいと思う。